Mixiにメッセージが届いていた。
見てみると、舞踏ライブのお誘い。友人でも知人でもない所から。
はて? とは思ったものの、とりあえず送り主のページへジャンプ。
なるほど、舞踏家の方でしたか。
舞踏はライブ・パフォーマンスの中でも、興味のあるジャンルの一つ。
どなたのステージだったかは忘れたが、知人に誘われて見に行った舞踏で、1ステージ丸々座ったままで舞踏をやられた方に、えらく感動したことがある。
五体のみで、すべてを表現する。
あれこれ拙い小細工を駆使して、どうにかこうにか伝えようとしている僕のような人間にしてみれば、それは絶望的な世界だ。
口を聞かず、紙も絵筆も持たず、ただステージがあるだけ。
衣装もそれと分かるものは、使っていなかった。
辛うじて音楽がある。それだけだ。
どうやってステージを構築すればいいのか、正直に言って想像できない。
まるっきり望外なのだ。
それでも以前に見たその舞踏のステージでは、周囲の気色まで幻視できた。
理解の範疇外にあるそれは、僕の世界に置換するなら「祭礼」のそれに等しい。
体感する以外のいかなる表現方法をもってしても、正しく伝わらない。
それが舞踏なのだと、思っている。
そういえば世間的には、トリノ・オリンピックのフィギュアスケート熱がすごかった。
女子シングルでは荒川静香が金メダルを見事手中にした。
男子シングルでは敵のいなくなった無人の荒野を、プルシェンコが独走した。
メダルという絶対評価の中で、それは凄いことだったが、両者ともフリースタイルの演技はそれほど感動できなかった。
ステージに広がる世界が、生憎と僕には見えなかったから。
特にプルシェンコ。
テクニカルで大差をつけてからというもの、なんか淡々とやっているように見えた。あの黒一色のコスチュームによって、情熱的な手の表現は映えたし、他の競技者と比べても確かに美しい演技だったと思うけど。(でも四年前の方が、えもいわれぬパワーが感じられて良かったと思う)
競技としてミスによる減点が怖いのは良く分かるし、大技を出したから美しいというものでもない。そして表現力という曖昧なものに重きを置くと、審査員の多くが理解するボディランゲッジを取り入れた演技が一番ということにもなり、たとえ公平に採点したとしても、恣意的と取られかねない結果になるだろう。
だから技術という分かりやすい指標で採点するのは、競技として正しいと思う。
でも正直な話、見ていて伝わってくるものがなければ面白くない。
そういう意味では、女子シングルでは村主の演技が一番だったと、僕は思っている。あくまで主観として。
安藤のチャレンジ精神にも拍手を送った。もちろん敢闘賞は敢闘賞であって、競技としての最優秀賞とはかけ離れた評価なだけど。(選手にしてみれば不本意な評価だろう)
閑話休題。
とにかくペアで金メダルを取ったタチアナ&マキシムの演技に感動した。
あれは分かりやすい題材だったのだろうか? 生憎とフィギュアスケートのことはよく知らないのでなんとも言えないが、選曲から演技から、ひどく「分かりやすい」印象を受けた。
あの二人の演技だけは、ストーリーを幻視できた気がする。
もちろんそれは僕の共通言語にリンクする部分が多かったという、偶然の成せる業なんだろうけど、どうせ好悪でしか評価のできない素人なのだ。率直にあの演技が秀でていたと、評価している。
長々と脱線してしまったが、とにかく、五体だけで何かを表現するというのは、僕にとって望外のパフォーマンスだ。
永久に体得できないだろうという、情けない確信をもっている。
そういうものを、3月8日に見せてくれるイベントがあるらしい。
是非とも行きたいが、生憎と、毎週水曜日はスタジオで缶詰が義務付けられている。
当分の間はスケジュールを恣意的にいじることは出来ない身の上が、呪わしい。
自業自得では、あるのだけど。