[memo] 物語に恋をすること

皆さん劇場アニメ『この世界の片隅に』はご覧になられましたでしょうか。

上映一週間で4回観に行ってまだ全然足りないというか、また観に行きたいんだけどちょっと出られない状態で血涙流してる玄兎です。

というわけで放置気味のブログですが、Twitterの方も覗きに行かないようにしてるのでコッチにちょっとメモ書き。

あ、そうそう。未見の方はぜひとも観に行ってください。特にコレ、劇場で観ないと音響的にもったいないシーンがあります。自宅で同じことやろうとしたら絶対近所迷惑だコレっていう(笑)

順次拡大中のようですが、興行成績の割に演ってる元から映画館が少ないんで、もしかするとちょっと足を伸ばす必要があるかもしれません。どれだけ長く演っていられるかもいまいち見えてこなかったりしますし。お早めに。

もちろん既にご覧になられた方も、何度でも足を運んで無問題です。突貫吶喊(笑)

恋するスキマ

んで本題。

「恋をする」ってのもアヤフヤな言葉ではありますが、状態としてはわりと分かりやすくて、ざっくり自分なりの言葉にすると「脳の処理領域(メモリ)の一部を特定対象に関する未確定な情報の処理に専有されている」ってトコですね。

寝ても覚めても可愛いあの子のことばかり、みたいなアレです。

んでまあ僕は今回『この世界の片隅に』に恋をしたわけです(笑)

最初は「すずさん可愛い」から「すずさん強い」というアレで、でも最後のスタッフロールで「径子さん良かったねェ」「すずさんスゲェ!」という、まあわりと分かりやすく人物を追って見てたんですが。

ただただ圧倒されるしかない、語彙を失うというのはこういうことか! という傑作でした。

ただ、同時にコレを知人らに勧める難しさも感じたんです。

大衆娯楽作品、時間芸術作品として見た時、この映画ってちょっとすっぽ抜けてるところがあるんですね。

ごくごく一般的な物語構成としては、結構ボンヤリして見えます。それぞれのシーンを分かりやすく整理した、いわゆる「ハリウッド的」な映像作品として見ようとすると、点数は辛くなるんじゃないかと思うんです。

たぶん、ウチの兄あたりに見せても「良かったけどよく分からなかった」とコメントするだろうなァ、とか思いますし。あの人は基本、映画イコール「スカっとするアクション映画」な人だから(笑)

「生活映画」なんて表現をされる方もいました。着物をモンペに直したり、食事を工夫(楠公飯とか野草料理とか)したり、洗濯物がススで汚れたり、確かに日常生活に関するシーンばっかりですんで分かります(笑)

あと「従来の反戦映画とは一線を画する」「『火垂るの墓』の呪いからの開放」なんてコメントもあったっけ。

他にも色々あるんですが、これ全部「決定的なセリフが無い」ってコトなんだと思うんですね。

人間にとって「善悪を定める」「立ち位置を定める」ということは精神安定上とても大事でして、それによって色々なものから身を守っているわけです。敵を倒すということは、それだけ自分の安全が確保できるということ。味方を作るということも同じです。

そのためには敵と味方をはっきりさせる。善と悪をはっきりさせる。少なくとも自分が感情移入している対象の正しさを肯定する要素を提示する。というのは大勢の人たちが安心して楽しめる物語を構成する上で、とても重要な事です。

多くの時間芸術が、これをセリフで処理します。言葉にするというのは、意思表示をする上で最も確実な方法です。覚悟を決める、見得を切るのは観客として大いにテンションの上がるシーンですし。

あるいは死で処理します。死というのは絶対的なものです。ある選択肢が提示された時、大事な人が死んでしまう選択肢は、悪い選択肢です。で、大事な人が生き残れる選択肢が、良い選択肢。その選択肢に関わるパラメータ(要素)で、悪い因果をもたらすものは悪で、良い因果をもたらすものが善となります。

『この世界の片隅に』にはセリフは無いけど生死はあります。いくつかあります。ただしその中でも決定的なものは一つだけです。まあその一つがとんでもなくエグいんですが、それが直接的に善悪を定めさせてくれないというのがまた悩ましいところでもあって。なにしろ直接的な善悪を問うなら主人公の不注意になりかねないし、原因を遡って戦争が悪いってのは間違ってないけど、あのシーンを切り取って考えると牽強付会に過ぎるきらいもあるわけで。*1自責の念に囚われてるカットもあるので。

比較対象として『火垂るの墓』を持ってくると、両者とも死による善悪の提示をはっきりさせてるんだけど、パラメータとしての戦争との距離感がだいぶ違うように感じます。『この世界の片隅に』は登場人物が多いことや、あるキャラクターの死によって物語が終わるわけではない、その先にも続く生活があって、その辺でも大分印象が違っています。(だからこその「呪いからの解放」なんでしょう)

そうしてみると劇場アニメ『この世界の片隅に』って、作中では明確な答えを示してないんですね。そこにスキマがある。いや示してるだろうって意見は当然あると思うし、社会一般として「正しい」見方をするなら「示されている」と読み取るべきなんでしょうが。

示されていると思うんだけど確証は無い。自分の正しさを、感情移入した人の正しさを、地歩を固めようとするなら、それを立証する何かが必要となる。どこかに必ずあるはずだ。あれがそうだろうか、これもそうに違いない。と、アレコレ考える。

どれも同じ方向を、つまり自分の考える「正しい」と思う向きを向いているように見えるんですね。でも決定的なことは言ってくれない。だから考えるし、信じるし、でも不安になるから言葉にしたい。

恋しちゃうわけです(笑)

抜け落ちたセリフと自由な視点

原作と比較すると、リンというキャラクターとのエピソードがごっそり抜けていて、その分だけキャラクターの再構築が行われていたりもするんだけど、それはそれで「もうひとりのすずさん」として楽しく見ることができるんで全然無問題なんです。

ただそれ以外にも終戦時のシーンで決定的なセリフが一つ、抜け落ちているものが確かあって。近いところまでは迫るんだけど、そのもののセリフは確か言ってない。それで原作ファンとして「これはどうなの?」って意見が出ていて。

まあその気持もよく分かるんです。分かるんですが、あれってすずさん個人のセリフなんですよね。もちろん主人公としての北條すずさんのセリフがあっても全然構わんのですが、たぶん劇場アニメの方はもうちょっと広く、群像劇的なところに視野があって。

その辺が色々と実験的な原作マンガとの違いでもあって、また同時に「色んな人の立場から見てみない?」っていう誘い水みたいにもなっていて。

たとえば刈谷さん。モブ的ですけど、この人のその後の人生もどうなったのか、ものすごく興味がわきます。物語としては小さいシーン 3つを繋ぐくらいしかないんですけど、この人もすずさんと同じくらいの物語があるんだろうな、という。そういう自由な目(視点)は、あのセリフで作品の見方を固定されなかったからこそだろうな、とも思ってます。

その広がりがまた、生活アニメとしての『この世界の片隅に』の面白さの一つだろうと。

みぎてのうた

あとまあコレもそうなんですが。

「最後(劇場が明るくなる)まで見てね」って言うんで最後まで見たら……

殺すつもりか! となったのがエンディングテーマ。

この作品、前には明確な死が一つしか無いって書きましたが、見る人によってはもう一つの決定的な死があると思っていて。

それが「すずさんの自由な目」=すずさんの[世界観]です。

精神的に殺されて、しまいには物理的にとどめを刺されて。

それでも「なんでも使って生きていく」戦いの中で足掻いて、物語はひとまずの終幕を迎える。

ただ、そこで終わらんのですね。

終幕後のスタッフロールの背景で、それが別の姿になって再生していっている。

もちろんどう見るかは自由なんだけど、すずさんを「つくるひと」と思っていたらそう見えたんですわ。

それで語彙を失っちゃったわけ(笑)

呼吸するのも忘れて、空気の代わりに涙を流していた次第。

嫌な涙じゃないのよ。苦しい、悲しい涙じゃない。

といって嬉しい、楽しいとかでもない。

なんと命名すれば良いのかわからない、「10. 無名の感情*2『ファー・ローズ・トゥ・ロード』ネタ。」が飽和したような涙でした。

以下余談。

『ファミリーズ!』の戰爭篇がまんまだって話を聞いて超欲しくなりましたが再販されませんかぐぬぬ。*3もともと『ファミリーズ!』の世界観って旧軍都っぽい匂いがするので相性は良さそうですが。

あとゲーム仲間連れて観に行ったら「GHH*4内輪で遊んでる人類史キャンペーンゲームのシリーズみたいな作品」って言われて超喜んだりしてました(笑)

References

References
1 自責の念に囚われてるカットもあるので。
2 『ファー・ローズ・トゥ・ロード』ネタ。
3 もともと『ファミリーズ!』の世界観って旧軍都っぽい匂いがするので相性は良さそうですが。
4 内輪で遊んでる人類史キャンペーンゲームのシリーズ

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