[Column] 【娯楽の核子】で読み解くゲーム(3) ~ ハイスコア競争

これまでの関連エントリ
  1. シリアスゲームって?
  2. 【娯楽の核子】で読み解くゲーム(1) ~ シリアスゲーム
  3. 【娯楽の核子】で読み解くゲーム(2) ~ 試験とゲーム

 (1) で『脳トレ』の基本構造、(2) でシリアスゲームの基本構造について、それぞれ【娯楽の核子】と「試験」からアプローチしてみました。
 とりあえず (1) で挙げられた二つの問題のうち、「楽しめるか?」への僕なりの解が (2) になります。
 それでは次、もうひとつの問題である「長続きするか」についての解へと進みましょう。

“特別な価値”の拡張 ~ 評価基準としての点数

 試験ってのは、点数が付きます。
 問題の難しさや、トータルの問題数などで、一問あたりの点数は異なりますが、とりあえず点数によって評価されます。

 【娯楽の核子】の考え方からすると、これは「反応」に与えられた“特別な価値”の一種です。
 【娯楽の核】としての「問題を解くこと」には、分解しても「操作 ⇒ 問題に答える」に対して「反応 ⇒ 答えの正否が分かる」だけですが、そこに正否によって点数が変動するという“特別な価値”が追加されている……というわけです。
 で、この点数というやつは、評価の基準になります。

視点「評価を得るための行動」

 問題に対して正解することは、すなわち「自分はその問題を解けた/解けるだけの能力がある」という評価を得るための行為である……という捉え方があります。
 このとき評価をするのは他者であることもあれば、自分自身であることもあります。

 いささか独善的な自己満足を肯定する考えなので、それを幼稚、大人気ないとする価値観の中では、あまり好まれる性質のものではありませんが、元々がソリティアの話をしているんで社会性を云々しても仕方ありません。*1[独善的な自己満足を否定する傾向] = 謙虚さを美徳とする社会では、それは容認しづらいものであるのは事実。だが謙遜によって本心を糊塗するのは本来、他者を混乱させるための戦術だ。それを自分自身に行って、自ら混乱することの意義を、私は見出せない。
 これを肯定するとき、「問題を解くこと」の“特別な価値”として「能力の評価基準」という価値が付帯されます。

絶対評価のための点数

 「能力の評価基準」を“特別な価値”と考えると、「問題を解くこと」の流れは「能力をプラス評価されることを目指して問題を解く(意志決定+操作) ⇒ 正解する(操作の結果としての反応) ⇒ 自身の能力についてプラス評価を得る(特別な価値)」といった形になります。
 しかしこれだけでは複数の問題が出されたとき、それぞれの問題ごとに「これは解ける」「これは解けない」といった個別の評価しか得ることが出来ません。このとき、能力*2[能力] = たとえば筆記試験なら知識と応用。学習段階、理解度など。評価は呆れるほど細分化されています。たとえば「彼の能力では“2+5”は解けるけど“3×4”は解けない」といった具合に。
 これでは総合的な評価としてはあまり意味がありません。
 そこでこれらの問題の正答数を、点数によって表すことにします。

最もシンプルな採点

 もっともシンプルな点数の付け方は、正解の数を数えるというものです。
 さきほどの例の場合、「2+5」が解けたものの、「3×4」は解けなかったので、正解は 1個。
 ですから 1点、といった具合に。
 この場合、両方解ければ 2点だし、両方解けなければ 0点となります。
 こうして点数化することで、総合評価が分かるようになります。

問題の難しさによって点数を変える

 更に「2+5」と「3×4」の難しさの違いに注目します。
 加算に比べて、乗算というのは学習段階は上、つまり難しいものとして扱われています。
 ですからこのとき、二つの問題に差をつけようと思ったら、正解時の得点にも差をつければいいわけです。
 たとえば「2+5」は 1点で、「3×4」は 2点、といった具合に。
 こうすると、「2+5」だけが解けたときは 1点、「3×4」だけが解けたときは 2点、両方解ければ 3点、両方解けなければ 0点、ということで、「3×4」が解けた人の方が評価が高いことになります。*3[3×4だけ解けた人の方が評価が高い] = 乗算が解けて加算が解けないのは注意力不足だ、とする別の評価法もあるのだが、それは今回は扱わないものとする。

相対評価

 繰り返しになりますが、こんな具合に「高得点 = 能力の高さのアピール」が、学校の試験を〈ゲーム〉化するための“特別な価値”の一つとして有る……としたとき、試験は「高得点を得て能力の高さをアピールするため」にトライされるよう設計されます。
 端的に言えば“高得点(ハイスコア)競争”ってわけです。

 高得点による自己アピールという性質は、しかし一人では行えません。
 誰もが簡単に満点が取れる問題を、高得点とはいえ満点でなかったらそれは能力の低さを証明することになってしまいます。点数評価は他者との比較、つまり相対評価によって初めて意味を持ちます。そして評価を点数にする、評価の数量化というのは、簡単に比較ができるという利点があります。

 しかしここで、ひとつ問題が発生します。
 それは「問題を解くことが楽しくなくなる原因」の一つ、

  • 頼みもしないのに試験結果を他人と比較される。

 こいつです。

基準点を設定する

 さて、「頼みもしないのに試験結果を他人と比較される」ことを、「問題を解くこと」が楽しくなくなる原因のひとつと考えました。が、相対評価というのは常に比較を必要とするものです。ここで矛盾が出てしまう。
 で、その解決策として、前回こんな提案をしました。

  • 試験結果は生徒が希望したときのみ他人に伝わり、比較材料となる。

 試験結果は、生徒が自主的に他人に伝えるまで、受けた生徒自身の秘密とする。
 こうすれば一応は、比較されることによって問題を解くことが楽しくなくなることを予防できるでしょう。しかしそうすると、今度は相対評価による満足感、「問題を解くこと」の楽しみの一つが失われてしまうことになるのでは?

 しかし一人だけ、他の誰にも知らせず、自分の試験結果を相対評価にすることができる人物がいます。
 試験を受けた生徒自身です。
 誰に知らせずとも、自分だけは知っている。ならば自分の得点と、それ以外の何かしらの基準点とを比較して、自分の試験結果を相対評価にすることができるはずです。
 必要なのは、相対評価にするための基準点ということになります。

二つの基準点

 自分自身で相対評価を行うための基準点には、二つのアプローチがあります。

 ひとつは「全体を基準にする」基準点です。
 これは「だいたいこれくらいの点数がとれれば合格」とか「これくらいの点数の人はこれくらいの能力」といった具合に、社会一般のレベルとの比較として設定されます。
 これには「最高得点」、「及第点」、「平均点」、「赤点」なんて基準があります。また、最初に試験作成者が、意識的に試験の難しさや得点配分をすることで、それぞれの基準点を予測し、それとの相対評価をつけるケースもあります。

 もうひとつは「個人を基準にする」基準点です。
 誰かと自分とを比較して、どっちが高かったかを競うわけです。このとき基準点は、相手の得点ということになります。しかし多くの場合、これをするには相手に自分の得点を教えなければならないケースが多く、秘密が守られないことがあります。そんなときはどうすればいいのか。
 その方法として、自分自身を相手にする、というものがあります。

 自分自身を相手にするってのは分かりづらいかもしれませんが、日常的に誰もがやっています。ある技能について「ここまで出来るようになった」「この前は上手くいったのに」とかいった具合に。
 要するにここで言う「自分自身」とは、「過去の自分」のことを指します。
 過去の自分の得点を基準に、それを [上回った | 下回った | 同じくらいだった] とか、どれくらい変化したか? なんてことを比べて、相対的にどれくらい上達したかを判断するわけです。

 過去の自分を上回れば、当然、達成感があります。
 そして何度も同じ試験を受け続け、採点によって正解と間違いが分かれば、ケアレスミスを減らしたり、間違っていたところを重点的に学習する、はたまた何度も同じ問題を解くことによる反復訓練の効果などから間違える率が減っていきます。
 結果として、安定して満点が取れるようになるまで、緩やかな成長を実感することが出来ます。
 この辺がゲームの学習効果を期待されて、シリアスゲームというムーブメントが生まれた所以でしょうか。

点数評価としての『脳トレ』

 さて、いまいちまとめずに話を進めてますが、最後にちょっと『脳トレ』の巧妙さを実例に解説してみることにします。

多層的な評価

 ゲームをプレイし始めると、まず問題が出題されます。例の「時間をかければ誰でも解けるくらいの問題」です。で、これに対して一問ずつ答えて――操作して――いくごとに正解、間違いの判定――反応――が、目と音で分かるようになっています。
 これが最初の評価。

 次に一連の問題カテゴリが終わると、正答数(または比率)と経過時間、大雑把なランクの評価が表示されます。
 これが二つめの評価。

 すべての問題カテゴリが終了したとき、総合成績と「脳年齢」が表示されます。
 これが三つめの評価。

 そして最後に、その日のプレイ結果と、過去のプレイ結果とを比較したグラフが表示されます。
 これが最後の評価。

 最初に【娯楽の核】として最も原始的な「問題を解くこと」そのものの充足。
 二つめに、シンプルな評価基準による最初の絶対評価。
 三つめに、その日の絶対評価と、脳年齢という「全体を基準にした」相対評価。
 そして最後に「個人(自分自身)を基準とした」相対評価。

 ……といった具合に、点数評価の持つ表現力をフル活用してプレイヤーを刺激する(楽しみを持続させる)構造になっています。
 しかもゲームソフトという性質上、誰に強制されるでもなく自分の意志でのみプレイされ、その評価はあくまで自分だけの秘密にできます。*4[評価は自分だけの秘密] = ただし同じソフトでプレイしている人(最大四人)は、お互いの成績を見ることが出来る。見せたくなければ自分専用にカートリッヂを調達しなければならない。
 更には「脳年齢」という評価単位の恐ろしい訴求力。

 ヒットするわけだァよ(笑)
 とかもう感心することしきりです。

 今回で一応、シリアスゲームとその例としての『脳トレ』話はオシマイです。
 次回はシューティングゲーム、アクションゲームについて、【娯楽の核子】から読み解いてみたいと思います。(両者とも今回の点数評価が大きく関係しています)

References

References
1 [独善的な自己満足を否定する傾向] = 謙虚さを美徳とする社会では、それは容認しづらいものであるのは事実。だが謙遜によって本心を糊塗するのは本来、他者を混乱させるための戦術だ。それを自分自身に行って、自ら混乱することの意義を、私は見出せない。
2 [能力] = たとえば筆記試験なら知識と応用。学習段階、理解度など。
3 [3×4だけ解けた人の方が評価が高い] = 乗算が解けて加算が解けないのは注意力不足だ、とする別の評価法もあるのだが、それは今回は扱わないものとする。
4 [評価は自分だけの秘密] = ただし同じソフトでプレイしている人(最大四人)は、お互いの成績を見ることが出来る。見せたくなければ自分専用にカートリッヂを調達しなければならない。