2008.06.08.
秋葉原に通り魔現る。
こうした日常空間で発生した非日常的な事件の犯罪者のことを、すぐに異常者だと決め付ける向きもありますが、犯罪を犯した人間に貼られるラベルが犯罪者以外の何かである理由が、身勝手な精神安定剤、無責任な『いやし』以上の意味を持つとは思えんのですが。(そうした理由で安易に「精神鑑定→精神異常者→減刑」とする昨今の流れは好きになれない)
まあ、それはともかく異常というならコレだって異常なんじゃないの? という話。
ページの内容
路上撮影会か?
- 秋葉原通り魔:容疑者の逮捕・連行を携帯で撮影
通俗的な観点で言うなら理解できる行動であり、異常ってことにはならないんでしょうが、もちょっと古めかしい道徳的な観点から言ったら異常なんじゃないのコレ?
もちろん、
- 秋葉原通り魔:携帯の映像瞬時に広まる 若者らが救助活動
なんて話もあって、一概に「皆が皆そうなんだ」と言うことはできないんですが。
だからこれをもって「今どきの~」というのは的外れなんだけど、まあでも正直、人間生命に対する関心って物に対する関心と同じくらいになってるよね、という感覚もあって、それはやっぱり恐いわけです。(2年前にも「ふと思い出して恐くなった画」なんてエントリ書きいたけど)
他人のふり見て我がふり直さず?
まあさ、こういう出歯亀まがいの行動についてマスコミが斟酌しないのは、自分ら自身が日常的にそういう行動してるからってのもあるんだろうなぁ、とか思うんだけど。
だからまあ、そうした対応をもって「マスゴミ」と決め付ける人もいるだろうし、それもまあ一つの意見なので、そっちについてはとやかく言わない。
ただまあ戦争・災害報道のカメラマンに対して苦言を呈することは出来ないなと。
戦争報道のカメラマンは常より「シャッター押してる時間があるなら一人でも助けろよ」って言われるし、それもまあ道理に適った話なわけですよ。一人でも助けることには確かな意義がある。
でもまあ誰かが世界に伝えないと、抑止力が働かないっていう現実もあるわけです。チベット問題にせよミャンマー軍政にせよ、あるいはアフリカの部族間戦争にせよ、カメラが入らないと分からない問題って沢山あって、そういう意味では彼らがシャッターを押す意義も、ちゃんとある。
どっちにも道理があって、まあ正義ってのも人それぞれですよ。だからそれ自体については水掛け論になるものだし、今後もそういう状態は続くでしょう。
でも、こうして誰もがカメラを持つようになって、現実に人助けよりも話のネタのために写真取ってる連中がたくさん出てくると「お前らだって人助けよりシャッター押してんじゃねーかよ」って話になるわけで。
とりあえずケータイで写真とった人は、戦争報道のカメラマンを「人でなし」とか言う権利は無いでしょうね。しかも、まがりなりにも報道カメラマンは仕事としてやっていて、それを公表することで外世界に対して何らかの影響力を及ぼすこともできるんだけど、写メとって友人に送ったって人は単なる野次馬であって、個人的な娯楽目的ですよ。どっちが酷いかって言ったらもう、丸分かりでしょう。
しかも加害者の写真をとるならともかく、被害者の写真取ってる人とかね。「他人が死ぬところなんて滅多に見られるものじゃないから。物珍しい」ってのもわかるんだけど。わかるんだけど、良いのか物珍しさ優先で? それって古代の剣闘士が殺しあうシーン見て喜んでるのと何か違うんか?
顧みるに
僕は幸運にもその現場には居合わせなかったので、どちらの行動をとったかはわからない。たぶん「逃げるだけで精いっぱい」という可能性が、一番高いと思う。けどその反面、もし逃げる必要のない距離にいたとき、写真を撮らない自信もあまりない。119番通報は、これまでの経験上、すると思う(実際に何度かやってる)けど、それとは別に写真は撮ってしまうかもしれない。これまで撮ったことはなかったけど、その理由は九分九厘「美学に反するから」であって、被害者がどーの、加害者がどーの、という感覚ではなかったし。
だからまあ、これは非難ではなくて恐怖なわけです。
自分が非日常と思っているものに、あるいは異常と思っているものに堕ちこんでしまうかもしれないという恐怖。
犯罪者のラベルは、やっぱり犯罪者以外ないんじゃない?
ああ、そうだ。
ひとつやっておくことがあった。
写真撮った人も、その写真を望んで受け取った人も、物珍しがって見た人も。
みんな呪われたかもね。