[diary] お片付け

ぼんやり思ったよしなしごと。

今住んでるアパートのお隣さんの部屋、どうもゴミ屋敷化しているようで、最近やたらと害虫害獣が出るようになったんですね。

大家に言ってもロクに対処してくれないので、嫌気が差して引っ越すことにしまして。

で、まあ部屋の片付けを進めてるわけですが。

そうするとまあ、出来るだけ荷物を減らそうということになって、持ち物の断捨離をしなけりゃいけません。

この部屋も結構長いこと使ってたんで、色んな物が出てくるわけですが、それら一つずつを吟味していくわけです。

「今後の生活にコレは必要か?」

そうするとまあ、自然と「残りの人生」なんてもんについて考えることにもなりまして。

「ああ、これは死に備えた身辺整理でも有るのだなあ」

なんて思ったりもしたわけです。

持っていくにしても、どこに置くか、どう保管するか、そのために必要なものは何かを考えにゃなりません。

処分するにしても、ゴミとして捨てるもの、売って誰かの元に届くことを望むもの、図書館等に寄付するもの、誰かに譲るもの、とまあ色々です。

自分にとっての価値。

他人にとっての価値。

モノにこびりついた価値も色々あって、引っ越しまでの時間で満足できる処理をするのも一仕事です。

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[note] ルールシステムとアソビ

(T)RPG をデザインする上で、ルールシステムと遊びの組み立て、というのはどう考えられているのか。

ここで言う「遊び」は、よく車の運転なんかで使われる「ハンドルのアソビ」に近いものですね。スキマ。余白。そういったものです。

(T)RPG のルールを組むとき、またシナリオを作るとき、そしてセッションを運営するとき、まず最初に考えるのが「使用するルールシステムは余白がどこに有るのか」ということです。それがそのルールシステムのセキュリティホールであり、またゲームに自由な創造を許すスペース=アソビになります。

近年よく使われるようになったゲームセッションの手順化は、こうしたアソビ、セキュリティホールを潰すことで、ゲームプレイを想定内に収斂しようというデザインの潮流です。特にナラティブゲームと称する一派は、こうした設計思想によって、ゲームとして認められるようになりました。

本エントリでは、従来のルールシステムの中にどんなアソビが見られるのか。それを読み取り、活用するのか。そのあたりについて考えてみたいと思います。

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[note] マスタリングの枝葉末節

ほとんど言語化されてない気がする、マスタリングの作文法。

まあ「実際のセッションでここまで形式化する必要があるのか?」と問われれば、基本的には「無い」と答えるのだけども。それは人それぞれの遊び方を阻害したくないからであって、僕個人としては必要だと思ってたりする。

マスタリングのテンポ、言い換えると場面の解像度のコントロールについては、この辺を考えないと始まらん……というのが僕のマスタリング技法の骨子なので。遊ぶゲームシステムごとの特性や、参加者のスタイルに合わせた場の構築は、コレのコントロールが全ての基盤になっている。

ということでリハビリがてら、ちょっと書いてみようか、というマスタリングの作文法。

マスタリングと遊びの解体。

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[diary] なんとなく愚痴るの巻

数年前に脳出血で倒れ、ごく短期間ではあったものの失語症めいた状態になり。以来、自分の発話がまるで信用できなくなって、結果として (T)RPG のセッションをロクに遊べなくなってしまったわけだけども。

やっぱり遊べなくなると関心が薄れるのよね。ルールブックを読む際にも「いずれ遊ぶために」ではなくなってしまうので、読み込みが浅くなる。

そもそも頭に入ってこなくなる。

脳内で遊びを構造化できなくなるんで「なんだこの怪文書」くらいになるんですね。

ある意味、未体験者の境地に立ち戻った気もするわけですが、それを活かす場があるわけでなし。

そういう意味では (T)RPG に関わるというのは結構キツい部分もあるんですが、半生をかけて追っかけてきた遊びですからね。そうそう離れられるわけもなく。

そんなわけで、ズルズルと引きずって歩いています。

まあ読本2にも書きましたけど、(T)RPG での遊び方はセッションをプレイするだけではありませんので。そういう意味ではまだまだ余地はあるし、今後はその辺をフラフラしようとは思っていますが。

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[work] 箱庭(小)辞典 – 理解・分解・再構築

可処分時間の用途について、脳内のアウトプットに比重が傾いたので、昔々に考えていた──陳腐化どころか腐り果てて微生物に分解されつくして土に還った──ネタを蔵出しして本(同人誌)にしよう。とか今更ながらに考えたりしてるわけです。

とはいえ流石に手間がかかりすぎるネタなので、多少なりと需要があるかどうかだけ知っておきたくて、ちょろっとエントリにした次第。いや10部も頒布できれば満足できるようなモンなんですけどね(笑)

内容的には『RPGキャラクターブック』のルールブック版です。

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[memo] シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

4月5日のことですが。

観てきました『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』。
結論から言えば

めっちゃ良かったです。

まあ改めて感想を書くには脳みそがだいぶ信用ならんので、観劇直後のツイートを再編集するくらいにしときます。

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[draft] ゲームシステム技術史案 : 物語記述編(0)

世界中で暴威を揮っているコロナ禍中において、ただひたすら自宅でゴロゴロぐだぐだと日々を送っております。玄兎です。

創作で気を紛らわせようとしても、どうにも手が進まず気が乗らないので、暇つぶしに脳内に溜まってる (T)RPG のルールデザインにおける技術史でもちょっとまとめてみようかと思った次第。

まあ暇つぶしでしかないので途中で投げちゃうと思いますが、こんな話、興味ある人いますかね?

あ、書きかけですんで悪しからず。あとで継ぎ足すか、節分けするかして続きは書くつもりです。

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[memo] 〈エモ〉い遊びとしてのTRPG史

[用語定義]

  • 〈エモ〉 : ある個人の強烈な価値観を理解し共感できること

(T)RPG と〈エモ〉さの記述

僕は常日頃より「ゲーム史について様々な視座から語られたら面白いのになー」と口を開けて待ち構えているダメ人間なわけですが。

こと (T)RPG におけるゲーム運営論についても色んな史観があって良いと思ってて、たとえば「感動体験を求めた歴史」として見るとき、今で言う〈エモ〉いというのは面白い軸なんじゃないかと。

ウォーゲーム起源論による (T)RPG の初期設計

〈エモ〉いって何なのか? というのは冒頭の用語定義を見てもらうとして、元々 (T)RPG って〈エモ〉い楽しみを追求した遊びなんじゃないか。と思ったりしてるのです。まあこれは RPG – ウォーゲーム起源論に準拠するならなんですけども。

ウォーゲームでは最適解の選択が求められます。その中には敢えてコマを捨てる、という選択もありうる。しかし実際にウォーゲームを遊んでいると、盤面を読み間違えて、本来なら捨てゴマにされるはずのユニットを無駄に守っちゃったりするわけです。

で、こうしたとき、プレイヤーには二つの選択があります。一つは単純に失着とみなすこと。もう一つは理由(言い訳)を探すことです。後者を選択したプレイヤーは、映画や小説からドラマチックな物語を探しました。なぜ救援に向かってしまったのか? なぜ任地を死守せず撤退したのか?

……これが (T)RPG の始まりなんじゃないかと。

つまりウォーゲームでは不可解とされる非合理的選択を、個人の物語に切り替えることで肯定しようとし、更にはそこに新たな楽しみを見出したものが (T)RPG なのでは? という史観です。そうしてみると (T)RPG って最初から〈エモ〉い遊びとして想定されていたんじゃないかという。

ゲーム運営からみた〈エモ〉さ追求の歴史

昔は〈エモ〉い要素ってどこから抽出していたんだろうかと考えると、ほぼ無かったんですね。強いて言うなら「死」にまつわる物語が〈エモ〉い遊びだったと考えられます。前述のウォーゲームにおける非合理的選択のように、戦闘ゲーム中のさまざまな行動と、それに付随する背景から〈エモ〉さを抽出していました。

この時点ではほとんどウォーゲームと同じ遊び方をしていたわけです。

それに昔のゲームはとにかく良く死んだ。死にやすかったんですね。んでまあその死に際してアレコレ語る余地を設ける、というのが〈エモ〉い遊びだったかなと。

ここから〈エモ〉さを追求し、より〈エモ〉い物語を、ということで「映画/漫画/小説のような遊び」へとシフトしていきます。まあ基本的には既存の物語の格好良いものを真似て遊んでたし、黎明期からコナン・ザ・グレートやエルリックごっこをやっていた人は多かったんで、むべなるかなって話では有るんですが。

この流れがあって、この頃から (T)RPG を「みんなで一つの物語を作る遊び」と定義する声が強くなったような気がします。これ以前の時代には「コマンドたたかう以外ができる遊び」とか、そんな表現も結構優勢だった気がするんですが。

ただし実際に「みんなで一つの物語を作る」と言っても方法は分かりません。みんなで模索していました。その中でたとえば『ダンジョンシネマティーク』のように物語論を展開してみたり、『バトルテックRPGリプレイ』でガンダムその他の既存の作品をゲームシナリオにする提案があったり、あるいは「RPGマガジン」でファンタジー世界の定番や作法を様々な方法で提示してみたり。『クロちゃんのRPG千夜一夜』や富士見ドラゴンブックのコレクションシリーズなんかもそうですね。(新紀元社のシリーズには大変お世話になったものです)

この頃は「ユーザ一人ひとりが勉強する」ことを前提に運営技法が組まれていました。たとえば「盗賊ギルドで情報を買う作法」のように。そうしたアクション一つ一つと既存の作品のシーンを結びつけて〈エモ〉い物語を作ろうとしていた。

でもまあ勉強した人としてない人の差が大きくなって、マウンティングが発生したり、あと剣と魔法以外のジャンルも増えたことで畑違いの作法がごっちゃになったり、まあ色んなトラブルが起きたわけです。

元々が自由を標榜する若者文化だったので、権威化によるピラミッド方式も使えない。これは常にニューカマーを必要としていた弱小カルチャーとしては頭の痛い問題でした。

これに対する解として、たとえば「事前の勉強に関係なくゲーム内で最適解を選ばせ続ければ一つの物語になるのでは?」という挑戦がありました。あるいは「むしろ PC を暴走させて PL にフォローさせれば〈エモ〉い物語になるのでは?」といったものも。これらの先鋭的な挑戦は、なかなか受け入れられなかったんですが。

んでまあ多少の迷走期を経て「ストーリーを固定しちゃえばいいじゃん」とコペルニクス的転回を果たします。以前は「個々人の自発的な行動の中に〈エモ〉い物語を見出そう」としていたのですが、それだと「一つの物語」にするのが難しかったんですね。

だから「最初から(エモ)い物語を用意して、その中で PC にそれっぽいことさせればまとまるじゃん」という、まあ個人的にはゴリゴリの力技だと思うんですが。それを「満足感」という大義名分で推し進めて、この運営論は主流派となりました。

で、最近までわりとこの運営論が鉄板としてメインストリームであり続けたんですが、これって協力ゲーム(参加者が協力して一つの目的を達成するゲーム形式)の文法なんですね。なので PvP などの競争ゲーム(参加者同士が異なる目的をもって競い合うゲーム形式)にはトコトン不向きなわけです。

そこで再びストーリーに依存しない形の〈エモ〉い物語の追求が始まりました。

PvP を許容する上でゲームのフェアネスを堅持するため資源管理を重視したシステムが増え、「死」にまつわる〈エモ〉い物語の抽出が再燃しているのは、個人的にちょっと面白いなと思ってみています。

……というあたりが現在の状況なのかなーとか。