[memo] 隠居者として

宣伝や広報ってな重要だなァ……と、苦々しく思いつめた日でした。

あるサービスが提供され、しかしそれについて殆どの人が知ることも語ることもなく、利用者も殆ど見られないままひっそりと終わった。

後になって「こういうサービスがあれば誰だって利用する。上手くいく」と吹聴するプランナーが現れた。
過去にそうしたサービスを提供し、うち切った人間に「やればいいんですよ」「絶対成功しますよ」と言う。
なんと残酷な話だろう。

時代の流れというものがある。

当時はそうしたサービスの需要がなかった。ただそれだけの話しかもしれない。
だから「当時はダメだったけど、今ならば」という話であるなら、それはそういうこともあると思う。

が、プランナーは「過去にそうしたサービスがあった」という事実すら把握してはいなかった。

まくしたてるプランの可能性は、確かに自分も考えていたことであった。
だが、それはプランナーの不見識によって、ただ勢いと思いつきの産物に過ぎない、なんとも薄っぺらなものにしか聞こえなかった。

同時に、彼がそうしたサービスを提供していたことを知っていた人間として、「有った」という事実にアクセスできるよう、正しく評価した言葉を残していなかった自責の念は、ただただ重い。

私は第一線から撤退し、隠居同然の身の上である。
現場から離れて久しい老骨の言など邪魔にしかならんであろうと、正しい判断は現場にいる若者たちがするだろうと、そうした理屈で責任をおっ被せて、引きこもっていた。

その結果がこれだ。

「第一線から、活動から手を引いたのなら黙っていろ」
というのは大筋で正しいことだと思っている。
リスクを負わない人間に、何をや語る権利があろう……といったところか。

突然マンガネタを持ち出すと、不真面目とか所詮はオタクとか言われるかもしれないが……

『ヒカルの碁』の中で、緒方という棋士に
「表に出てこないものに興味はない」
というセリフがあった。
自分の「隠居者が語るな」という考えは、これに刺されたものだった。

が。
毎日毎秒、生まれては消えていく小さな全てを第一線の棋士の手で拾い集められるかといえば、やはり難しい。

だいたい囲碁の世界にだって日本棋院があり、またニュースメディアがある。
彼らは囲碁の世界にあって「第一線」であるか? 「棋士」であるか? というと、どうだろうか。
とてもじゃないが、歴戦の棋譜の編纂であったり、棋戦の調整や広報活動、そうした活動のための資金集め、その運営……そうしたことを、現役棋士だけの手で行えるかといえば、甚だ疑問だ。
彼らを支える人々もまた、支える立場における「現役」であろう。

つまり「支援者」という立場での「現役」というものがある、ということ。

趣味や遊戯の世界においては、「現役」とは「実践者」を指す事が多い。
趣味に金や時間、労力を費やしている者。
だがその費やし方にも色々ある、ということを失念しがちだ。

「遊ばなければ分からないこと」があるのは確かだ。
だが「遊んでいるだけでは分からないこと」もある。
両者の間で語るべき内容、語るべき言葉は違う。

「支援者として語る」ということには、やはり相応の価値があろうと思う。
自分は既に実践者としては一線から退いている。
だがそれでも出来ることも、すべきこともあるようだ。

広報。
宣伝。
言葉にすること。

広め、伝え、残すこと。

幸い、今このWWWという環境は、様々な検索エンジンサービスによって、目的さえはっきりしているなら細大漏らさず具に拾い集めることができる。
それは完全とは言えなくとも、サポートするだけの力はある。

言葉を残すだけでも、後に続く人たちの助けになることが、あるかもしれない。
それはとてもか細いけれど、そういう支援の仕方もあろうと思う。

マナーは守る必要がある。
テーマを考える必要がある。
伝え方によっては反感を招き、それによって言葉どころか語られたものそのものに批判が集まることもある。

丁寧に、しかし大胆に。
僕らはもっと、たくさんのことを語ってもいいのだと思う。