昨日は退院して早々、ももんげ氏に誘われて国立博物館に行って来ました。
これ目当てで。
朝っぱらから。連休中だから混むだろう、ってことで。
……案の定、混みまくってたわけですが。
ページの内容
好き勝手言うと良いよ
今回の特別展「対決 – 巨匠たちの日本美術」ですが。
日本美術の作品を並べて、ジャッジをするのは来館者。
実に面白い。
それでこそミュージアムというものです(笑)
入館する前、列に並びながらももんげ氏と話してた“哲学”の拘え方が、そもそもこの二人の不謹慎さを象徴していて。
「哲学なんて道具だよ」
「真面目に哲学やってる人に怒られるぞ」
「怒られたら『エライさんも言ってるじゃねーか』で良いさ」
「そりゃ権威主義じゃねーか」
「いいんだよ。権威だって道具なんだから、使ってやらんと」
不謹慎です(笑)
でも、ま、その程度でいい。誰かがそれをありがたがっているからって、“右へ倣え”でありがたがってやる必要も無い。ありがたがるだけの価値を認めたときに、そうすればいい。
……そんな人間が二人、「巨匠の作品」を見に行ったわけだから、これはもう好き勝手言いまくりです。
巨匠の作品だろうが「つまらない」だの「ケチくさい」だの「残念」だの。
なんて傍迷惑。
だが気にしない(笑)
感想
今回は、んー……そうだなぁ。
芦雪、蕭白&若冲、円空、等伯、くらいの順でヒットしました。
応挙v.s.芦雪
応挙と芦雪なら、これはもう芦雪の勝ちでしょう。
大好きです。芦雪のナマッ気(笑)
芦雪の『虎襖図』が有った瞬間、俺のエンジンはフルスロットルに(笑)
いいですよね。あの「どうだ!」と言わんばかりの画面。
一般には応挙の方がビッグネームですけど、今回の作品群はイマイチ。
『虎襖図』に『猛虎図屏風』を当てられた応挙が哀れ(笑)
蕭白v.s.若冲
蕭白と若冲の直接対決は、あれドローでしょう。
『群仙図屏風』にせよ『仙人掌群鶏図襖』にせよ、別次元で(笑)
まるで対決になってない(笑)
蕭白の毒ッ気に比べると若冲は大人しく見えるけど、あの『仙人掌群鶏図襖』の遊び心は蕭白のそれに勝ると僕は思ってて。(この話は最後に書きます)
あと、『群仙図屏風』を立てて米寿の祝いをするとか。
米寿で仙境に入っちゃうの。
面白そうだけどなァ。
等伯v.s.永徳
等伯と永徳は、なんで永徳? という。
まあ分からないではないんだけど、このクソ暑くなったタイミングで松林図屏風なんか出したら、そりゃ暑苦しい檜図屏風に勝ち目なんかないでしょう。
永徳にとっては超アウェイでした。可哀想に。
円空v.s.木喰
可哀想といえば木喰。
対決相手が円空です。そんな無茶な(笑)
でも『賓頭盧尊者坐像』は木喰の方が好きです。
蕪村v.s.大雅
蕪村と大雅だったら、大雅だなぁ。
あの軸、床の間に掛けておきたい。
茶をすすったり、飯食ったりしながら眺めるのにピッタリですわ(笑)
蕪村は、ほぼ丸ごと「残念でった」の一言(笑)
あの人は十宜図だけで良かったと思うんだ。
(小品が大作に負けないのが蕪村だと思うので)
雪舟v.s.雪村、宗達v.s.光琳
雪舟と雪村、宗達と光琳……どっちでもいい。
なんというか「ツマンナイ」というのが正直なところで。
鉄斎v.s.大観
鉄斎と大観では、「大観は悪趣味だなァ」ってくらいですかね。
なんでよりにもよって雲中富士図なんか持ってきたんだ?
(いやまあ鉄斎の富士山図との対決ってことなんだろうけど)
その他
歌麿と写楽の対決はスルーしました。
あんなんは手にとって色んな角度で見られなきゃ意味ないです(笑)
そういう意味では仁清と乾山、長次郎と光悦あたりも同じ。
特に長次郎と光悦とか、ガラスケースに納められた茶器の何を見ろと(苦笑)
違ってていい
そんな具合の評価だったんですが、まあ異論のある人もたくさんいるでしょう。
いていい。
というか、いないと意味がないのが今回の企画展で。
なんだか高尚なもののように飾られてる「芸術品」ってやつですが。
あんなもん作家のエゴです(笑)
「俺はこれが好きなんじゃい!」って話です。
そんなモンを唯々諾々と受け取るなんてな馬鹿馬鹿しい。
「俺はこっちが良いと思うんだ!」と言われたら「俺もそう思う。こっちはこの辺がいいよな」とか、逆に「俺はそうは思わない。俺はあっちの方がいいと思う」とか、好き勝手に言い合えるのが対等な関係ってやつで、そうして正面から向き合わないと、アートってやつはちゃんと見えないと思うのです。
不器用な人々
誰の言葉だか忘れましたが、ある音楽家が自身の音楽表現について訊ねられたとき、
「それが言葉にできるなら、僕は音楽なんかやってない」
と答えた、というエピソードがあって。
僕はこいつが大好きでして。
表現者ってのは大抵、不器用なんですよ(笑)
自分のいいたいことも言葉に出来ないような、ものすごい不器用な人間。
で、言葉に出来ないものを、偶然出遭った別の表現技法でならどうにか表現できそうな気がして、それにのめりこんで。
気がついたら第一人者になってました(笑)
そういう手合いが、たぶん予想以上に多いんじゃないかと。
不器用な人間が、必死こいて何かを言おうとしてるのがアート。
あたりかまわずラクガキする子供と同じですよ(笑)
だから愛おしくて堪らない。
最後に
ところ構わずゲラゲラ笑ったのが、若冲の『仙人掌群鶏図襖』ね。
あれって襖絵でしょう。つまり動くわけです。
一枚ずつ、現れたり消えたりする。
一種のパズルですよ。福笑いでもいいや。
でも、たとえば芦雪の『虎襖図』なんか見てもわかりますが、こう、襖をすべてつなげないと意味がない画面って多いわけです。
それを一枚ずつ別々の画面を作って並べている。
これは若冲が襖ってものの性質(動きがあること)をよく理解してたか、あるいは閃いたかして、「よっしゃひとつ遊んでやろう」としたんじゃないか。
……と、僕は勝手に思っています(笑)
で、そうやって好き勝手に配列しなおして見ると、もっそい形相で睨み付けてるヤツと、そいつから目を背けて別のヤツをにらんでるようなヤツがいるわけです。まるで「あんだテメェ、ガンくれてやがんのか?」「お、俺じゃねぇよぉ……お、お前。お前行け!」「俺だってヤだよぉ」とやってるように見えなくもない(笑)
あるいは「浮気してる旦那が、浮気相手の向こうに女房子供が見えてビビってる」とか、「浮気相手の向こうに鬼の形相でソッポ向いてる本妻がいてビビってる」いう構図に配置することもできる。(ちなみに後者は僕の発想ではなく、中学生くらいの女の子が、父親らしきオッチャンに話していた視点。いいぞ、その奔放なモノの見方。オトーチャンの顔がひきつってたけど(笑))
間違いなく不謹慎なわけですが、でもそう見えちゃったんだから仕方がない(笑)
自分勝手にストーリー付けて見ると、また違った面白さになります。
「この夏、ヒマだー」という方、一度ちょっくら足を運んで、巨匠の作品相手にメチャクチャな楽しみ方をしてみるのも一興ですぜ?(笑)