満足と妥協

 情報と物の氾濫した現代社会において、欲しいものは探せば大概あります。
 だからみんな、探す技術ばっかり長けていくんだけども。
「欲しいものがあったら自分で作ればいいじゃないか」と、たまに思います。
 需要と供給の構図をブチ壊す、消費経済の敵みたいなセリフですが。

 山ごもりしたときに思ったんですけどね、都会って怖いです。
 カネがないと何も出来ない。
 山暮らしの間中、カネがなくても足りないものは、自分で材料とって来て作っちゃえば良かったので、まあモノの出来栄えさえ気にしなければ、大層ラクな生活をしていたように思います。
 右掌の皮が、ちょっとボロボロになりましたけど。

 まあ都会とカネのアレコレはさておいて。

 


欲しいものがあったら、まず探す。
 そうすると大概、売ってます。入手難度はともかく、どっかにあります。
 でもそのほとんどは、きっと「欲しいものに近いもの」であって「欲しいもの」そのものじゃあないでしょう。
 ごく稀に「そうそうコレコレ、コレが欲しかったんだ」ってモノに出遇うこともありますが、大抵の場合「そう、こんな感じのヤツ」とか「あー、こーゆーのなのか。なるほどねー」じゃあないかと。
 それで満足できるなら良いンですが。
 しばらくすると、それに不満が出てくるんじゃないかと。で、またもっと良さそうなものを探す。……資本主義経済、特に大量消費経済における模範的市民だとは思いますが、それではいずれ自分が枯渇します。
 枯渇といっても、なにもカネの話だけじゃない。
 わかりやすい代価を支払って、及第点スレスレのものばかり手に入れていると、いずれ「良いものを選ぶ感性」が妥協することに慣れて、枯渇してしまうんじゃないかと。

 もっとも、なにもかも自分で作っていたら、今度は「時間」という限りある資源が枯渇してしまうわけで、そういう意味で優先順位をつける必要はあるでしょう。
 「廃れていい感性」と「廃れさせたくない感性」とを分けて、前者はいくらでも妥協すればいい。しかし後者は、せめて妥協せず作り出す努力をしてみるのも、良いのではないかと。
 もちろん、探し出す努力というものもあるので、それはそれで構わないんですが。

 そういえば、探し出す努力もまた、必要のない社会になりつつあるようで。
 インターネット端末で検索すれば、欲しいものは大概見つかる。
 書痴、というか愛書狂の端くれとしては、やはり古本屋を一軒一軒渡り歩いて、インクとカビの香しい店内を捜し歩くのがイイと思うんですが、なんかもうオークションサイトでポンと売られてるのを見ると、ガックリきてしまいます。
 オカネで売買するとなると、「その一冊を見つけるためにかかった時間」というものがありません。「その一冊を買うために働いた時間」ならあるでしょうが、連続した日常生活の中から、それだけを切り出すのは少々困難です。
 ロマンが足りんですよロマンが。

 どちらも時間的余裕のあるヤツの戯言、と見られてしまえばそれまでの話です。
 でもなんか、つまらん時代になったなァ……とか思ってしまいます。
 苦労が苦労でない楽しみとか、みんなちゃんと持ってるのかしらん?