なんかもう「日記」とか忘れようぜ!
ってことで、新しい目標は「何でも良いから 1日 1記事書こう」ってことにしよう。
このペースで行くと、週末までには隔日になり、来週中には3日1記事になり、来月には週イチに……なんてことになりそうだけど、まあ気張らんでテキトーに行こう。単なるリハビリなんだし。
ちなみに今回のエントリはこれ、昨日の日記を書く前にメモしてたやつなのだ。
どんだけグダグダなのかと(笑)
ページの内容
Jコミで絶版TRPGの復刻か!?
Twitter の方で、絶版になってる TRPG のルールブックが「Jコミ」で復刻*1[復刻] = まあ「復刻」って言葉が正しいかは分からんですが。されるかも?
……って話があって、自分もこれは純粋に「わーい!」と喜んでたんですが。
その中で「復刻するなら関連書籍の方をお願いしたいなー」ってツイートがあったんですよ。
「言われてみればそうだね、技術資料とか欲しいね」と思ったんだけど、同時にたぶんこれ反発もありうるなーとか思ったわけです。
で、今回のエントリ。
古典の復刻に対するスタンス
古典。
ここでは『ゲームマスターの達人』や『ロールプレイングゲームハンドブック ダンジョンディープ』、あるいは『クロちゃんのRPG千夜一夜』や『五竜亭の冒険』等の「前世紀に出版された(相対的に)古い関連書籍とその内容」を指すものと考えといて下さい。もちろん「○○がよくわかる本」なんかも含みます。
こうした古典について、「失伝を含んでおり極めて重要な価値を持つ」とするスタンスや、「今でも価値がある」とするスタンス、また「既に価値はない」とか「時代遅れで害毒である」といったスタンスがあります。
ちなみに僕は、研究の上では「失伝を~」だけど、1ユーザとしては「価値がある」とするスタンス。
ただし色々と七面倒なプロセスを辿ります。
古典の毒 ~ マコト主義
古典を取り扱うとき、こいつが足を引っ張ってくれちゃうことがあります。
ありがちなのが「原書厨」なんて言われる言動。
「原書では~」とか「古典では~」といった紋切型で、ある種の権威をバックに自説をゴリ押しする。
で、これに対して「原書厨は~」といった、これまた紋切型で排除にかかる。
こうなるともう、意地とレッテルの張り合いに終始して、ろくに話が進まなくなります。
これは何も原書厨に限らずあるわけですね。
典型的なのが、いわゆるリアルリアリティ志向のプレイヤー。
現実の物理法則やら歴史知識やらを引っ張り出して、「○○が××なら△△になるはずだ!」と決め付ける。それは正しいのかもしれないけど、ゲームの舞台のリアリティがそれに沿っているかどうかは正直なところ、分からんのですよね。僕個人としては、わりとそうしたリアルリアリティを重視するプレイングそのものには肯定的なんだけど、「かくあるべきである」と言うのは好きじゃないし、ましてやソレによって同席者の白けた表情を見るのは真っ平ごめんなわけで。
こうした「何らかの原典を背景にした言説」を仮に「マコト」、また「現実」は「マコト」に沿うべきであるとする姿勢を「マコト主義」と呼ぶことにしましょう。(なお、「マコト主義」にとって「言説の背景とする原典」と「その時に扱われている内容」との関連性の正誤や強度は、特に問われません)
TRPG の場合、「マコト」に沿うべき「現実」とは主にゲームの状況や処理などを指します。
「マコト主義者」への忌避感 ~ 「マコト」となりやすい古典
「マコト」それ自体は、数多ある価値観・世界観*2[世界観] = not 世界設定。のうちのひとつでしかありません。
そもそも TRPG を遊ぶ上で、一切の「マコト」無しで居るというのは難しい。
たとえば「ルールブックに沿う」ことも、広義の「マコト主義」と言える。
あるいは公式サプリメント、公式リプレイなんかが「マコト」になったりする。
そうしたゲーム舞台の認識を共有することで、説明を省略して高速にテンポよく遊べるようになる。
……そういう利点があるので、「マコト」そのものを排他するのは難しい。
問題となるのは、「マコト」そのものというより「マコト主義」の姿勢の方でしょう。
「マコト主義者」は自身に都合のいい「マコト」を他者に強要します。
それによって他者の「マコト」を否定する。他者の不都合を招く。
いわゆる「口プロレス」というのがソレです。
だから嫌われる。
そして古典とは、そうした「マコト主義」に体よく利用されやすい傾向があります。
だから過去に「マコト主義」に悩まされたプレイヤーは、その典拠となった「マコト」そのもの、つまり古典に対して忌避感を持ってしまう。
そういう流れがあるわけです。
「マコト主義」対策 ~ 古典、恐るるに足らず
「マコト主義者」たちによって場が荒らされる事が、問題視されるようになった。
といって、エバンジェリストたちもそれを投げっぱなしに放置していたわけでなく、それに対して様々なマナー、ルールなどが記述されていったわけで。
たとえば「レギュレーション」という方法では、「今回使用するのはこのルールに限定します」と先に定義しておくことで、「原書では~」と言われても「最初に決めた通り、今回そのルールは使用しません」と返すだけで済むようになりました。
また「相当品」という方法では、「○○の使い道は××に準じます」と定義することで、「○○は実際にこういう運用をされていて~」と言われても「ここでは××の相当品として扱うのでそれはナシで」と言えるわけで。
……書いてて思ったんだけど、「マコト主義」対策は主に「定義」という方法が採られとるんですな。
んでまあ何でもギチギチに定義で締め付けちゃってもナンだし、定義忘れの穴を突かれて困らんようにゴールデンルールなんてのが書かれたりもする、と。
まあそのゴールデンルール自体を解釈問題にして、これが「マコト主義」的に運用されちゃうことを危惧する人もいるようで、まだまだ万全というわけではないんでしょうが、それでも様々な対策が取られてきていると思います。
そういう意味では、今なお古典を敬遠する必要は無いかなー、なんて思ったりするわけです。
再チャレンジの機会として
あるいは古典がノイズになる、ゲームを遊ぶ上での判断基準を乱すことになる。
古典の復刻が懐古厨のバックボーンになって、一種の派閥闘争になりかねない。
そういった危惧も考えられるんですね。
ただまあソレは、普及によってユーザ層が厚くなっていく際に、当たり前にある生存競争なわけで。
そうした生存競争によって、淘汰は一度起こっていると思うんですね。
で、淘汰されたユーザは、そのまま TRPG から離れちゃってたりする。
そういう人たちを呼び戻す、呼び水にならんかなーとか思うわけです。
生存競争、あるいは世代間闘争みたいなことをやってたのも今は昔。
その辺の(今になってみれば首を傾げる)確執なんかもサッパリ流れたところで、お互いを肯定的に受け入れやすくなってる部分もあると思うんですよ。(それこそかつての『ルーンクエスト’90s』のように(笑))
もしかしたら過去の再来になるかもしれないけど、経験を積んだユーザたちは、そうした騒動への対処法も身につけてるでしょうし。
もちろん安易なヘイトで終わる可能性もあるんですけどね。
あるいは侵略者と見ちゃう保守層もいるでしょうし。
でも、ま、そこまで未成熟な文化じゃないと思うんで。
あるいは凡百の読物として
今と昔を比較するのは、色んな考えを整理するのに役に立つと思うんですよ。
システム構造によって不要になってる知識や技術なんかもあるんでしょうけど、それは別の構造を持ったシステムでは今でも有用だったりするわけで。
それに対して過去にどういう対策が講じられてきたか? なんてのは有用な知識じゃないかなーとか。
そうした「実用書」としての話を除いても、普通に読物としての面白さってのもあるんですよね。
五竜亭にせよクロちゃんにせよ、読物として面白い。
それによってユーザが増えた過去はあるわけで。
「今のゲームとはあまりに違う」って話もあるでしょうけど、だからって不要ってこたぁない。
キッカケは多いほうが良かろうと思います。
あとはその復刻にかかるコスト計算の話になるんだけど、その辺はぶっちゃけエンドユーザがあれこれ言う話じゃないので(笑)