ということで『3月のライオン』の最新巻です。
出かけてヘトヘトになった帰りに買って、読んだら元気になったったという曰くつきのマジックアイテム(笑)
いやまあ後頭部の頭痛とかは収まらなかったけど。
なんというか、「やっぱり自分この作品好きだなァ」と思わされました。
「ファンタジーでないからこそのファンタジー」とでも言うか。
ページの内容
飾らない世界
今巻(7巻)の中で惚れたのは、冒頭の「信じれば夢は叶う」にまつわる話と、鴨川べりで零がひなちゃんを見つけたことに関する扱い。
飾らない世界というか……いや、読めば相当に作為的ではあるんだけど、その作為は自分にとっては腑に落ちるリアルさが感じられるものなんで。
「信じれば夢は叶う。」
「信じれば夢は叶う。」
「信じて努力を続ければ夢は叶う。」
「信じて他のどのライバルよりも1時間長く毎日努力を続ければある程度迄の夢は、かなりの確率で叶う。」
努力
僕はどうも「努力」という言葉が好きじゃなくて。
というのはソレが言い訳に多用されて、恐ろしく安っぽくなってるところが。
「努力している」という人のソレが、自己満足以上のモノであることは少ない。
「努力した」という人のソレが、美化以外の何かであることも少ない。
あんなもんは他人にとって「見世物」に過ぎない。
それでも「努力している」って人なら、まだ自己満足でしかないとしても、目標に対するアプローチのひとつとして……つまり「ただ楽しめるレベルを超えた領域で戦おうとしている」のであれば、まだ認められるというか、ナンボでも言えばヨイと思うんよ。
ナルシシズムによって支えられる「積み重ね」ってのもあるし、それで偉業を成し遂げる人間なんてナンボでもいるし。そのために周囲の人間を、彼らにさほど負担でないレベルで利用しようってんなら大いに利用すりゃあいい。他人の自己賛美なんて聞き流してりゃいいんだし、必要な言葉もテンプレから引っ張ってくりゃ充分だし。
まーでもその目的があくまで自分のエゴの発露であるなら、「言ってる間にさっさとやれよ」と思うんだけど(笑)
でも「努力した。でもダメだった」で、その努力とやらを美化して自己正当化して、なにもかも他人に押し付けるってのは、認めらんない。
順慶は新人王戦でそれを二階堂に向けてやらかし、また高城はひなちゃんにそれをやった。
ひとりはそれでも戦う道へと帰っていき、ひとりは何も理解しないまま、何も変わらない。
信じた先にある夢のセカイ
順慶と高城、二人の何が違ったのか。
順慶はそれでも一度はホンモノの努力ってやつをしてきていて、高城はこれっぽっちもそんなことはして来なかった……ってトコかなーとか思ってて。
負けても尚強くなれるってのが、この作品では何度も何度も示されています。
近々には、島田さん。
宗谷に負けて一度はガタガタになったのに、敗者復活から「華はないくせに/また一枚/ぶ厚くなって/戻って来やがった」と言われるほどになって、棋匠位の挑戦者に! ……まあその、「病人対局」とか「ザ☆病弱対決」とか、あまつさえ「みにくい心理合戦」とか言われるくらいグダグダなめちゃくちゃ対局だったみたいだけど(笑)
順慶もまた、「戻りたい」と願った戦場に戻れるんでしょう。
戻り方も、戻る場所があることも知ってるから。
信じているから。
さて、そうなると高城はどうなるのか。
ぶっちゃけこいつ、何も信じてないんですよね。
ただ不信だけがある。
言ってみれば「信じられない」ということだけを信じている。
「不信を信じる」ってのも馬鹿馬鹿しい話なんだけど、そうして辿り着く先ってのは、たしかに信じた「不信」の結果に満ちたセカイなんだろーなァ……なんてことも思いますわな(笑)
頑張ったって就職できるかわからない。
だから頑張らない。
そりゃ就職できる可能性は、更に小さくなりますわ。
「頑張ることで就職できるルート」を閉ざしてるわけだし。
かくして信じた不信のセカイは現実になる。
「信じれば夢は叶う。」
皮膚感覚
この「努力」に関する感覚もそうなんだけど、もう一つ、自分の中では「奇跡」に関する感覚ってのもあって。
どっちも言わば「事実の観測の仕方」であって、「事実」そのものじゃない。
そうしたモノの扱い方が、「やっぱいいわー」って思っちゃうんよ。
それは奇跡的であっても奇跡ではない
前巻の、零がひなちゃんを鴨川べりで見つけたシーン。
それは奇跡的な演出であったけども、誰も「奇跡」とは言わない。
強いて言うなら「夢かと思った」というヒナちゃんのモノローグ、あるいは「すごいよね!?/見つけて/くれたんだよ?」というセリフだけ。
零はそうしたいからひなちゃんを探したし、零はひなちゃんの行動について考えて、経験から川べりを探した。
それはもちろん偶然じゃなくて。
でも、それでもそれは奇跡的なことだと思うんだけど、誰もそれを奇跡だとは思ってないのね。
当然だとも思ってない。
ただ「坊主の/おかげだな…」「よかったね/ひな」という言葉だけ。
モノローグにせよ演出にせよ、それはあたかも奇跡のように描かれてる。
それなのに誰も、そのことを「奇跡」なんて言葉にはしないんよね。
生活の中、日常にあるものを奇跡と呼ばない。
誰かの想いが成したことは、ただそのままその通りに受け止めている。
なんていうんだろう?
自分にとってはこの辺って「皮膚感覚」ってことになるんだけど、それが物凄く気持ちいいんですよね。『3月のライオン』って。(ハチクロちゃんと読んでないんで「羽海野チカの作風が」とは言えない)
そういえば宗谷の語られ方も
宗谷冬司の語られ方も、「神さまの子供」とか「将棋の鬼」なんて言われたかと思えば、会長や柳原棋匠には「可愛かったよな/初タイトルとった頃の/宗谷さあ~~」とか「今はもう/おっさんだけどね」とか。
ものすごい高みにいる、ほとんどバケモノみたいな存在なんだけど、社会が変わるとちゃんと地続きの存在として扱われてる。
丁寧にちょっとだけ背伸びした、ちょっとだけ優しい等身大の日常があって、そこから地続きの高みがあって……その表現がまた何とも心地よい。
「信じれば夢は叶う。」
「信じて努力を続ければ夢は叶う。」
「信じて他のどのライバルよりも1時間長く毎日努力を続ければある程度迄の夢は、かなりの確率で叶う。」
それは諦める口実なんかにもなりかねない「シンジツ」だけど、この作品に通徹する想いはそっち側ではないんですよね。一時の負けは、歩みを止めることを否定しない。否定しないんだけど、そこから「もう一度歩き始めようよ」と柔らかく手を引いてくれるような、そんな感覚。
優しいけど厳しい。
厳しいけど優しい。
優しいから厳しい。
厳しいから優しい。
すごい元気になれる作品です。