[memo] RPF『レッドドラゴン』のサイトを見て考えたこと

 これ見て「RPFってなんじゃろな?」って思ったわけね。
 んでまあ、ちょっくら考えた。
 途中までブログ用に書いてたんだけど、何からかにまで思いついたこと片っ端から書いてたら 7,000字あたりでめんどくさくなったんで、それは捨てて、ざっくり Tweet しようと思って書きなおした。
 でも案の定というか、まとめても 8連投することになっちゃうんで、やっぱしブログに書いた次第。
 テキストは Tweet 用のフォーマットだから、だいぶぶっきらぼうだし乱雑だけどね。

  1. 大枠でいくと、まず SLG → (T)RPG の系譜があって、そのゲームの中に曖昧なまま取り込まれた「物語を作る遊び」の定義がある。
    この物語は早い段階から分化していて、でも整理されないまま今日まで来た。
  2. んでその物語記述は、リプレイの書式によって形成された「演技」と、ノベライズの書式によって形成された「戯曲」があって、二つの路線が洗練を重ねながら、ゲームとしてはリプレイ側に寄せられていく。
    これはプロのスタンスやらビジネススタイルとも関係してくる。
  3. ところが TRPG の演技はモノマネ芸としてのメタ遊びの性質と、記憶と体験の共有によるコミュニティ生成の楽しみがあって、リプレイもそうした性質が多少なりと存在する。
    これは戯曲的な物語としてはメタに振れてしまって独自性が弱い。
  4. 『ロードス島戦記』の頃は、そうしたメタな読み方をする読者が少なかった。
    故に世界に強く没入出来た、と言うことも可能ではないかと思う。
    それはプレイヤーを匿名としたこと、個性を薄めたリプレイテキストの書き方なども、無関係ではない……かもしれない。
  5. そこで専用のゲームシステムを作成し、それをワンオフにすることで、ゲームシステムから逆算する「メタな読み方」を切り離し、更に内容自体もより戯曲性を強めた「物語を作る遊び」の形成を狙う、というアプローチが考えられる。
  6. そう考えた時、まず「メタな読み方をする消費者が増えた」という時世の違いが、一体どのように影響するのかを考える必要がある。
    要するに『ロードス島戦記』の下に二匹目のドジョウは居ないと僕は思っている。
    そのとき参加プレイヤーを公開したことが、どう生きてくるのか。
  7. この考えの路線でいくと、RPF は「リプレイとノベライズの幸福な結婚」ということになるのかな、という気もする。
    最近また目にするようになった「TRPGを創作用の考具にする」って流れとも関係するのかもしれない。
    この辺はまあ、願望(笑)
  8. 何にせよ『レッドドラゴン』の企画は初志貫徹して欲しいし、旧来のRPGユーザが滅多矢鱈に横槍やら茶々やら入れて、流れを歪めないでくれたらいいなぁ、とか思ってる。

 こんな感じ。