幸福病

 私という人間は、心底幸せだと感じるときが来たら、きっと死んでしまうだろうと思っている。


 
 きっと死にたくなる。
 自殺などするつもりはないが、心臓は無条件闘争を起こすだろう。
 満たされることは絶対的な絶望だ。
 満ち足りてしまったその先には希望も欲望も理想もない。
 満ち足りた瞬間、人は虚無になる。
 まるで禅問答だが、不思議と確信だけはあった。

 私には多くの家族があり、それはとても幸福なことだと思う。
 私のような人間を好いて支えてくれるのだ。感謝は絶えない。
 もちろん小さな問題は山積で、ただ幸福だけを貪る家庭とは到底言えないが、私には過ぎたる宝だ。
 だが、「このまま」ではないことは断言できる。
 家族一人一人が異なる社会に属し、常に多くの新しい経験を積んで、変化し成長しているのだ。
 変わらないはずがない。
 もし家族が未来永劫、今と変わらぬ関係を保ち続けるとしたら……それは悪夢だ。
 どれほど幸せな家族であっても、それは悪夢でしかない。
 変わるものだ。誰しも。
 その漠然とした不安の確信こそが、幸福に潜む絶望である。
 私はきっと手の付けられないペシミストなのだろう。
 だから万人が、同じように幸福の絶頂で死を迎えるとは思わない。
 それは私個人がそうだろうという革新的な予測に過ぎない。

 26の時から4年弱かけて、私の半生で最高の仕事ができたと思った。
 多くの一般人は「たかがテレビアニメじゃないか」と言うだろう。
 そしてアニヲタは「あんなアニメのどこが最高なんだ」と見下し嘲笑うのだ。
 だが、私はたった1年で作った爆発的ヒット作よりも、海の向こうで受賞したアニメーション映画よりも、今回の仕事こそが最高だと断言する。
 やっつけ仕事を許さない、プロフェッショナルの真剣勝負ができた。
 この確信は揺らがない。
 あのままプロジェクト終了となる今年の7月が過ぎたら、本当に心臓はその役目を終えたと実感して長い長い休みを申告し、脳はそれを受理していたかもしれないと思った。
 ところがそうと感じた瞬間から、次から次へと横槍が入って、どんどん雲行きが怪しくなっていった。
 私は満足の絶頂に至ることを確信しながらも、そこに至るより大分手前の上り坂で足止めされ、蹴落とされた。
 私はどうやら、また死に損ねたらしい。