[note] 生涯学習の価値付け

 のんびりと「生涯学習の是非」みたいな話をしてた日。
 きっかけは昨日のエントリ書くのにアレコレ聞いてたら、「アカデミズムから逃げ回るの、いーかげんにやめろ」って怒られた、というか……まあ単純に「そこまで考えるならちゃんと勉強しようよ旦那」って皮肉られたダケの話だったんだけど(笑)

 特に面白かったのは、人生訓(ライフハック)としての「生涯学習」の美しさと、施策(プロジェクト)としての「生涯学習」の難しさについて。
 これって両者のスタンスで語られる「学習」の価値付けが全く違っていて、だけどその辺が「生涯学習」という言葉の、看板の美しさで隠されてしまいがちなんですね。建前や美徳が好きな「善人」にとっては、無批判に全肯定したくなっちゃう美しさ。

ライフハックとプロジェクト

 個々人が生涯をかけて学習を旨とする。それはとても素晴らしいことでしょう。
 このとき「学習」と言えば「学ぶこと」そのものが目的であり、またそれによって生じる真摯な姿勢をもって美徳と呼ばれるでしょう。学ぶ内容については個々別々、十人十色の選択に委ねられ、また「何故それを学ぶのか」ということについても個々人の目的意識があるだけで十分と言えます。
 個人の持つ可処分時間を、その人の価値観の中でより有益なものを選択する。その選択肢の一つとして、生涯学習の価値があると考えられます。そこには特に生産性は求められません。各自が自己責任の原則に沿って行う活動だからです。

 ところがそれを組織――例えば国家や地方自治体、あるいは企業など――のプロジェクトとして行う場合、組織が有する資源を動かすことになり、そこに経済が生じることになります。
 他者の活動にバイアスをかけることや、そのために資源を運用することについての責任が生じます。
 それに対するエクスキューズとして、生産性が求められることになります。

 数量としての資源が動かなかったとしても、資源の質的変化は生じるでしょう。
 また可処分時間を学習に回せということであれば、そこで発生するはずだった経済の流れが堰き止められたり、あるいは流れの向きを変えられたりします。
 あるいは生産に割り当てられる時間を学習に回せってことになれば、それはそれで生産力が低下するわけで、その補填をするために経済が生じることになります。
 プロジェクトとして実施する場合、そうした費用対効果について考える必要があります。

プロジェクト「生涯学習」への問い

 プロジェクトとしての「生涯学習」は、組織の維持/成長のために有益に機能するものなのか? ということは必ず考えなければならんでしょう。
 もし全くの無益であるなら、それは組織の経済力を単純に目減りさせるだけでしかありません。
 あるいは組織が経済活動によって利益を得ることについて批判的な人たちの「利益を社会に還元せよ」という題目に沿うのだとしても、相互に Win-Win の関係を築くために「生涯学習」という施策が適切であるか? どのような方法によってそれを行うのが最も効率的であるのか? ということは考える必要があるでしょう。

 そうした組織論を前提とした上で、大雑把に次のような問いが生まれます。

 人々が生涯学習を志すことによって生まれる利益はなにか? あるいは損失は?
 どのような形態で生涯学習が行われることが最も効率的であるのか?
 どのようなことについて学習することが望ましいのか?
 学習によって身につけられたスキルはどのように役立つのか?
 学習によって失われるものは何か? どの程度失われるのか?

 そして「プロジェクトとしての生涯学習」が行われなかった場合、どのような損失があるのか?

 これらの設問は、相互にラダーリング(感覚的認識に対する評価と理由)で連結していて、どれかひとつに言及しようとしただけで、芋づる式に全部考えることになっちゃう……という、ちょっとイヤラシイ話になるように作ってみました。たぶん。
 で、まあとりあえずこの辺について煮詰めておいて、運用レベルに周知を進めておく必要があります。そうしとかないと、現場で運用する人間は「意義も理由も分からずに命令に従うだけ」という、あんまり望ましくない活動をせざるを得なくなります。

問いに答えられない組織の未来

 一方的な命令に対し、それに従わざるをえない立場の中間管理職は、ほとんど奴隷根性で引き受けます。そうするとまあ、当然ですがほとんどの場合、意図に沿った形で努力することができません。命令者に評価されるためにプロジェクトを運用する、という努力の仕方しかなくなります。
 そういう中間管理職の命令に従わなきゃならん末端というのは悲劇でして、よっぽどポジティブな人間か、あるいはプロジェクトが自分個人にとって都合のいいものでもなければ、まずモチベーションを維持できない。

 結局、プロジェクトの目的からズレた形でフレームだけが運用されることになり、形骸化して関係者が大なり小なり不幸になるか、あるいは個々が好き勝手に食い散らかすか……どちらにせよ目的の一割も達成されずに「失策」のレッテルを貼られるか、あるいは誰もそれに気付かないまま組織の体力がゆっくりと削げ落ちていく「緩慢な死」に向かっていくことになってしまうわけです。

夢を見せることの罪

 少々厳しい物言いをすれば、「他人の夢のために金を出す」というのは、金を出す側にも相応の責任が生じるものです。下手に延命措置をしたために、却って傷口が大きくなって取り返しが付かなくなる……なんてのは、いつの時代、どんな場所にも転がってる悲喜劇でしょう。

 隆慶一郎の『時代小説の愉しみ』というエッセイ集の中で、「教える罪」という記事があります。
 氏がシナリオ教室の講師をやっていた折の話で、「なまじ賞をとったために人生が狂った人たち」にまつわる三つのエピソードです。
 シナリオコンクールで何がしかの賞をとったときに、慢心してしまった人たちの話なんですが、どっちかというと「教える罪」というより「夢を見せることの罪」といった感もあります。そこに至って氏はシナリオ教室の講師を辞めたそうです。「教える/夢を見せる」というのは、それだけ他人の人生を狂わせてしまう可能性を孕んでいるわけです。

 夢が中途半端に叶っちゃった時って、なんかこう自我が増大しまくることがあるんですよね。
 貪欲になるというか、成功体験が悪い方向に機能しちゃう。
 それはまあ自業自得ではあるんだけど、そうしてある意味で「無用の挫折」を味わっちゃって、歪んじゃう人というのは少なからずいるんじゃないかと。目の当たりにしたこともあれば、自分自身がそうなっていたこともあって、だからまあ主観的に僕がそう信じたいだけなのかも知れませんが。

 ともあれ、そうした「他者を支援する活動」を無計画に行うことが、果たしてどれだけリスキーなものか? ということは常に考えておくべきだろうと思います。そう考えると二の足を踏んでしまう人もいるでしょうし、それによって支援を受けられずに才能が伸び悩むことになるケースもあり得ます。どうしても支援することが必要だと考える場合、あとで後悔しないために、双方を納得させられるだけの明確な目的意識、ロードマップの設定というのは重要です。
 特にそれが、双方が自己責任で行っているだけの、「ライフハックとしての生涯学習」に忠実なものであるならともかく、何らかの取引が行われ、経済が生じる「プロジェクトとしての「生涯学習」であった場合、リスクマネジメントや、ある種のゲームデザインは必須であると考えます。
 言葉の美しさに耽溺して、なにもかもを現場に丸投げにするようなプロジェクトデザインというのは、(マージンを搾取する人間を除いて)誰にとっても不幸な結果を招くだけじゃないかなー、という。

 なんかまあ、そんな話をしてました。
 この手の話になると、必ずどこかで異なるリソース(例えば時間と金銭)の取引が生じるわけですが、それをしっかりと行うためには価値観の「具体化」と「評価」が必要になってきます。これがまあトラブルというかコンクリフトの元でして。
 なんでまあ、ちゃんと話を煮詰めてないプロジェクトには、眉に唾しとけって話。

 特に政治向きの話ってわけじゃないのですよ。ええ、違いますともさ。