[note] 昔話のはなし

  • 桃太郎のお供は「おばあさん」や「アンパンマン」 昔話を知らない子供が増えている?

 この手の話題が出ると、色々とめんどくさいことを考えるんだけども。
 たとえば「そもそも昔話の効能ってなんなのか?」とか。

昔話じゃなきゃダメか?

 たぶんこの手の話って、文化論みたいなモノになるんだろうけど。
 そもそもが

「子供に昔話を伝える」

 ってのが何なのかって考えると、疑問点なんか山のように出てくるわけで。
 たとえば――

「子供が昔話をどうやって知るのか?」

 なんて話になると、これはまあ家族による読み聞かせなんかが一番多いでしょう。特に上記リサーチの中でも「3歳児」なんてのは、ほとんどそれしか方法がない。もうちょっと上がると幼稚園/保育園なんかの施設でってパターンもあります。
 まあどちらにしても、周辺環境が「伝える」ことで、初めて子供はそれに触れるわけです。
 自分から昔話を摂取しに行くって子供は、よほどのレアケースでしょう。(本を一人で読める年齢になると、色々と手を出すプロセスで遭遇する可能性もあります)

 じゃあ次、

「なぜ親や保育士は子供に昔話を読み聞かせるのか」

 ってところになると、どうでしょう?
 経験上、子供にそうした話をしたのは三つのケースでした。

  1. 寝かしつけるときの読み聞かせ
  2. 教訓話として話し聞かせる
  3. 遊び(コミュニケーション)の一種

 他に「昔話を話す」っていうのは……たぶん、なかったと思うんだけど。
 これ、どれも別に昔話である必要はないんですよね。
 現代に書かれた絵本だって、あるいは絵本でなくても構わないわけです。

単純機能を求めるなら昔話でなくても良い

 [1 : 寝かしつけるときの読み聞かせ]や[3 : 遊び(コミュニケーション)の一種]なんかは、ある程度の年齢になると自分からオーダーしてくるようになったりします。作品そのものをオーダーしてくることもあれば、キャラクターとかシチュエーションとかいった限定的なものだけだったり……そうそう、中には「いったいどんな話だそれ」とか思うような謎のオーダーとかもあるんだけど(笑)
 一番困ったのは「ももたろーがわんことおさるときじつれておにたいじするおはなしして」とか。
 うん、よくできました。
 でもそれ言われたら話すこと無いから(笑)

 たぶん問題になるのは[2 : 教訓話として話し聞かせる]なんだけど。
 この辺について、たとえば「最近は身近なレベルに終止するケースが多いと言うか、たとえ話で教えるよりも、そのまま直球で“アリ/ナシ”を教えてるような気がします。即応力って意味ではそれでいいんだけど、応用力って意味では弱いんですよ。想像力が育まれないから。それじゃイカンのです」みたいな話をするんだけど、そういう「○○だからイカン」っていうのは大体、解法があるんですよね。
 で、実際に解法を持ってくると、そこで納得する人と、「それじゃダメなんだ。○○じゃなきゃダメなんだ」っていう人がいて、まあ昔話とか、いかにも「文化」の匂いがするものって言うのは後者が発生しやすい。
 「文化の保護」ってものすごくナイーヴな心理を突付くし、普段ナショナリズムを意識してない人でも「なんか大変そう」くらいには思うみたいで。

 たぶん上のリサーチも、そういう読み方をする人が多いんだろうなぁとか思うんだけど、もしそうだとすると、実はその「昔話の継承」っていうのがどれくらい前に発生したのか? とかそういう話題を出してもいいものかと思っちゃう。
 わりと短いんですよね、「日本昔ばなし」みたいに再編集された昔話の継承系って。

これまでの「昔話の継承」の実態

 書籍化によって継承されてきたものも有るんだけど、本を読まなかったり、読めなかったり、そもそも本に触れる機会がなかったりした地域の場合、そういうのは村の古老の話だとかで、かなり地域差があったりしたわけです。
 民話なんか、同じ話でも登場キャラクターの名前が違ったり、容姿や形態が違ったり、あまつさえオチが違うものなんてのもあるし。標準化されたのって、結局は書籍化やらラジオやテレビによるメディア戦略、また教育への導入なんかによって行われたものであって、「昔からみんな同じ話を語り伝えてきた」なんてのは大層な幻想だったんじゃないかと。
 そういう地域差のある昔話をフィールドワークで集めたのが、たとえば『遠野物語』だったり『グリム童話』だったりして、それもまた書籍化によって標準化が行われました。まあ『グリム童話』は版を重ねるごとに再話(改変)が行われていたりして、必ずしも「地域差をそのまま保存している」というモノではないそうですが。

 また有名な「ウサギとカメ」の民話なんかは、あれ、元はイソップ童話ですからね。日本の昔話じゃない。日本語化されたのは江戸時代の『伊曾保物語』が普及した結果だったそうで、いわゆる翻案モノの一種と言ってもいいんじゃないかとか。まあそういう翻案っていろんなモノで行われてて、時代に合わせて変化してきてるモンだったりするんですが。
 この辺はいわゆる「日本語」と同じですな。
 時々マスメディアのヒマネタに使われる「日本語が崩壊している」なんて言うのは、実は自分が習った/使ってきたものとの違いくらいでしかなくて、二代前から見たら貴方だって全然めちゃくちゃな言葉を使ってるでしょ、とか(笑)

 そういうこと考えると、このリサーチって文化論としては片手落ちと言うか、「どこで知ったのか」まで調べないと意味がなさそうだと思うんですが……この辺はまあ利用目的次第なんで、なんか他に利用価値があるのかもしれません。

話題としての昔話

 ここでちょっと、さっきまで扱ってた「昔話を話す状況」とは別の、「誰が昔話を話していたのか」から考えてみることにします。
 そうすると、これ、誰なんでしょうか? 思うに「直接の親から」という流れより、「祖父母から」という一世代分の中を抜いた距離での話になるんじゃないかという気がします。そう考えると、ごく単純に「三世代が一緒に暮らす」っていう生活モデル自体が減ってるからなァ……っていうことで、問題は昔話以前の話になっちゃったりして。

 で、まあ「祖父母から」だとすると、次に「何故に親は話さず祖父母は話すのか」なんて疑問が出てきます。
 まあ色々と考えることは出来るんですが、たとえば日常的なコミュニケーション量の差分から、親に比べて祖父母は子供との話題が少ないっていうのがあるんじゃないか? なんて考えることも出来ます。
 あるいは身体機能の面から、両親なら体を使って遊ぶことが出来るけど、祖父母にはそれが難しい――なんて考えることも出来ます。
 そうした「共有する情報が少ないこと」と「運動しない遊び(コミュニケーション)」と、これら両方の条件をクリアする遊びのひとつが「昔話を語り聞かせる」ということなのかな、とか。
 つまり話題としての昔話、ですね。

 これもやはり、他に話題があれば別に、昔話でなくても構わないということになります。
 ただ、情操教育の観点からすると、昔話の持つ性質と機能を兼ね備えたものでなければ、同じ成果を期待することは出来ないでしょう。
 では情操教育として見た「昔話の性質と機能」とは何か?

現実的な想像力を喚起する昔話

 昔話の口伝ってのは、コミュニティの中でも「今と昔を接続する」という機能があります。
 僕は昔話に「現代的でないこと」の価値を認めてたりするんですが。

 現代的でないってことは、そのものそのままに語るだけでは伝わらない、ということです。たとえば「臼(うす)」とか「杵(きね)」とか言ったものを、名詞だけで現代の子供がどれだけ理解出来るかと言うと、学校やら町内会やらで餅つき大会でもやってなければ、触れる機会もないでしょう。都会の子供たちには、「お百姓さん」ですら通用しないこともあります。
 つまり昔話を語り聞かせるには、以下の二つの要件が必要となります。

  1. (話者)理解させるためには説明力が必要
  2. (聴者)理解するためには想像力が必要

 子供って、分からないことは何でも質問攻めにするところがあるでしょう。ただそれでも説明が足りないということは、いくらでもある。そうするとまあ、子供はなけなしの知識を総動員してパッチワークを作ります。「たぶんこういうものだろう」という想像で、まあそれは実際には「伝えようとしていたもの」と比べて全くメチャクチャな姿だったりもするわけですが、子供の中で納得できていれば、とりあえずの問題にはなりません。

 ……この辺のコミュニケーションのズレってーと、今書いてる TRPG の[成功判定]がらみの話にも大いに関係したり、また表現者として考える[対話]の実態やなんかの根源だったりもするんですが、とりあえずそれは置いておくとして。

 そうした「不足した情報を想像力で補填する」っていう事は、結構いろんな場面で役に立ちます。また、そうした想像力が働かせられなければ、あるエピソードから本質を抜き取って教訓を得る、ということも難しくなります。
 その手の想像力を発達させるための訓練として、昔話、たとえ話というのは役に立つと考えるわけです。

古老の代わりとしてのアンパンマン

 核家族化が進んだことで、子供の世話を母親(ないし父親)が見なければならない、といった環境が多く発生するようになりました。
 三世代で暮らしていれば、子供は祖父母に任せておく、ということも可能ですが、核家族化が進むことによって、それが難しくなりました。結果として家庭で子育てをする人は、家事の他に子供の面倒も見なければならない、ということになります。それはとても大変なことです。

 で、まあ子供を大人しくさせておく方法として、「子供の好きなビデオを見せる」という手段があって。たとえば最初は一緒に見てて、大人しく見られるようになったら、あるいは熱中してかぶりつきになったら、こっそりそこから離れて家事に戻るとか。
 『アンパンマン』に限らず、『トトロ』やら『プリキュア』やらの DVD が揃ってるご家庭というのは、そこそこあるんじゃないかと。*1[子供に大人しくさせるためのビデオ] = 平成ライダーやらウルトラマンやらが、イケメンと言われるキャストを多用するようになったのも、この手の利用法があったればこそなわけで。

 昔はそんなものありませんし、まあ祖父母の方も(そうでないケースもあるけど)孫の面倒を見てくれたりしますんで、そこで自然、二世代分の格差があるコミュニケーションを行うことになります。今はそれが DVD という単方向の、受信するだけのものになっている。
 結果として、学生時代は得難い「年長者とのコミュニケーション訓練」を、最初期にする機会が減ってしまった……というのが勿体無いなぁとか、そんな感じなんですけどね。

余談

 翻案とはちょっと違うんだけど、ラテン語版ウィキペディア(Vicipaedia)の、日本の天皇の表記がグレィトなんですよ。個人的に特に好きな響きのものを抜き出してみると……

1 Simmus imperator primus 660-582 a.C.n. → シンムス・インペラトール・プリムス:神武天皇(初代の)
15 Odzin(Hachiman) 270-310 → オーヅィン:応神天皇(ハチマン:八幡)
21 Iuriacus 456-479 * → イウリアクス:雄略天皇
32 Susiunus (?-592, r. 587-592) * → スシウヌス:崇峻天皇
50 Cammus (737-806, r. 781-806) → カンムス:桓武天皇
56 Seiva (850-881, r. 858-876) * → セイウァ:清和天皇
62 Muracamius (926-967, r. 946-967) → ムラカミウス:村上天皇
63 Reiseius (950-1011, r. 967-969) * → レイセイウス:冷泉天皇
70 Reiseius II (1025-1068, r. 1045-1068) * → レイセイウス二世:後冷泉天皇
76 Konoeus (1139-1155, r. 1142-1155) * → コノエウス:近衛天皇
81 Antocus (1178-1185, r. 1180-1185) * → アントクス:安徳天皇
97 Murakamius II (1328-1368, r. 1339-1368) * → ムラカミウス二世:後村上天皇
106 Ogimatius (1517-1593, r. 1557-1586) → オギマティウス:正親町天皇
121 Komeius (1831-1867, r. 1846-1867) → コーメイウス:孝明天皇
122 Meidius (1852-1912, r. 1867-1912) → メイディウス:明治天皇
123 Taisionius (1879-1926, r. 1912-1926) → タイシオニウス:大正天皇
124 Siovanus (imperator Hirohitus) (1901-1989, r. 1926-1989) → シオウァヌス:昭和天皇(インペラトール・ヒロヒトゥス)
125 Acihitus (1933-, r. 1989- praesens) → アキヒトゥス(今上天皇)

 色々とスゴそうな感じ(何)

References

References
1 [子供に大人しくさせるためのビデオ] = 平成ライダーやらウルトラマンやらが、イケメンと言われるキャストを多用するようになったのも、この手の利用法があったればこそなわけで。