[read] 七夕特別編

 久しぶりだったんで、どんな文体で書いてたか忘れてる。いかんいかん。

ある七夕の夜のこと

 ぽ。

 ぽた。

 ぱた。

 ぽた、ぱた。

 ぱたぱた。

 ぱたたたたた。

「あーあー」

 窓に背を向け、書類に向かっていた若者が、間延びした声を上げる。
 ネクタイを緩め、背伸びをして、くるりと椅子を回した。

「今年も雨だなあ」

 ぼやくように、呟いた。

***

「せーんせ」

 ふと後ろから声をかけられる。聞き覚えのある声。B組の――安倍かずら。
 何年か前に家が火事で全焼して、天涯孤独になった少女だった。
 今は寮に入って通ってるって話だったけど。

「安倍か。入り口の入室禁止、読めなかったか?」
「うん」

 先日終わった試験の採点中だったので、入り口には入室禁止の札をかけておいたのだが。
 椅子を回して少女に向き合い、尋ねる。
 まるで悪びれず、少女は頷いた。

「お前なあ」

 いくらか事情は聞いていただけに、あまり強くは出られない。
 火事で焼き出されてから、全身火傷で生死の境をさまよっていたという。

「雨ですね」
「早く帰らないと、もっと降ってくるかもなあ」
「傘忘れちゃって」

 若い教師はどうしようかと辺りを見渡す。が、自分と少女の他には誰もいなかった。
 いつの間にか、誰もいなくなっていたらしい。
 そういえば挨拶をされたような気もしてくる。
 自分は生返事をしていただろう。
 あの人にもそうしていたらと考えたら、少し憂鬱な気分になった。きっと後で言われる。

「先生は――」
「七夕の雨は、昔は吉事だったんだそうだ。いいことだったんだな」

 は? と、少女が面食らって言葉を止める。
 そしらぬ風で、若者が続ける。

「元は供物としての、聖なる布を織る前の禊だったとか」
「みそ、ぎ?」
「心とか魂とか、穢れを清めること。潔斎とも言うな。前に授業でやらなかったか?」
「えーとー……」
「お前な」

 ため息ひとつ。
 再び椅子を回して、窓の外、雨雲に覆われた空を眺める。

「雨は心の憂さを、流してくれる」

 もう十年は経っただろうか。
 懐かしい、あの日の一夜を思い出す。
 まだ自分が東京に住んでいた頃。
 雨が降った。
 あの人が、降らせた。

「私、雨は嫌い」

 懐かしい思い出に、柔らかい気持ちになった途端、少女に水をさされた。

「そうか。雨は嫌いか」
「うん」

 背中に妙な熱を感じる。
 嫌な予感がした。

「傘、貸してやるから帰りなさい。寮までなら大した距離じゃないだろう」

 しぶる少女に、自分の傘を押し付けて、職員室から追い出した。

***

「あーあー。どうすっかなあ」

 空を見上げて男はぼやいた。
 明日には返さなければならない授業があったので、その分だけでもと採点を続けていたら、ずいぶんと時間がかかってしまった。いっそ持って帰って、家でやったほうが良かったか。
 雨は本降りになっている。
 駐車場に行くまでにびしょ濡れになりそうだ。

「どうしたの?」

 いつの間にか、隣にスーツの女が立っていた。
 どこか嬉しそうに、空を眺めている。

「傘、忘れちゃったんですよ」

 咄嗟に嘘が口をついた。

「また?」

 女は呆れたように返すと、ふふ、と柔らかい笑いを続けた。

「駐車場まででしょう? 使う?」
「けど」

 隣から差し出された折りたたみ傘を、受け取ろうかどうするか、戸惑った。

「私は濡れてっても――」
「ダメだって言ってるでしょう。センセ」

 この人は本当にやらかす。
 ずいぶんと前だが、一度それで、目のやり場に困ったことを思い出した。
 そういう話でもないだろう。自分。

「とにかくダメです。俺は走っていけば」
「それも駄目。それから、また」
「はい?」

 急に正面を向いて、詰め寄られた。
 息がかかりそうな距離に、思わず口をつぐんだ。

「センセじゃないでしょ」
「……先生」
「はい、よろしい」

 こういう時に限って、昔の関係に立ち返るんだからなあ。
 ため息が漏れる。

「こら」
「すみません」

 もはや反射的に謝ってしまう。
 こういうのを尻に敷かれるって言うのかなと考え、ため息がもう一つ。
 男の様子に女ももうひとつ、呆れたようにため息を漏らした。

 一歩下がって咳払いひとつ。
 取り繕うように傘を突きつける。

「それじゃあ、駐車場まで一緒に行きましょう?」
「お願いします」

 小さく頭を下げながら、男は町の地図を思い浮かべる。
 雨降りの七夕の夜、ちょっとしたドライブくらい、きっと許してくれる。