……ナースさんとアホ話をしてたんですが。
これ、どっちでも無いと思うんですよね。
「どっちも正しい」じゃなくて「どっちも間違い」と。
まあ、僕は結婚って概念に対して極端に冷めてて、「してもしなくても同じちゃうの?」とか本気でよく言います。結婚なんて社会的な問題点をクリアするための便宜上のもので、せいぜい説得材料くらいのもんだろうという。そういう人間の言うことだと認識した上で、興味があったら続きをどうぞ。
結婚。
結婚をゴールやスタートにする人は、たとえば次のような認識が、無意識の中にあるんじゃないかと。
「結婚=ひとつ屋根の下での生活」
これ、別です。そんなこと、結婚しなくたって出来る。
ゴールやスタートといったひとつの節目として認識しているのは、法的な紙切れのことではなく、むしろ「一緒に暮らす」ことの方じゃないのかと。
そう明確に線を引いたとき、初めてゴールとかスタートとかの意味が成立します。
「一人暮しのゴール」とか「同居生活のスタート」とか。
そういうモンじゃあないのかと。
嫁ないし婿入りした人にとって、姓が変わることは特別なことでしょう。
そうした心理的な作用ってのは確かにあります。
好きな人と同じになる、というのはロマンティックな話です。
(僕自身はそれほど興味を持てない部類の話ですが)
これもまあ、言うなれば「旧姓のゴール」「新姓のスタート」です。
……とまあ、そういう「結婚の概念」を一つずつ分解して考えていくと、確かにそれぞれはゴールでありスタートである、古きに別れ新しきを得るものだと思います。
ただ、それでも結婚がゴールだとかスタートだとかいう認識は、間違ってると思うんですよね。あんなんただの通過点です。えらく夢のない話ですが、そう思っておいた方がいい。
変に相手にレッテルをつけると、妙な期待をしちゃうんで。
例えば「大人しい人だ」と思ってる相手には、無意識に「大人しくしててね」と期待をしている。「あの人は口汚い」と思ってる相手には、無意識に「口汚い言葉」を期待している。期待を要求に置き換えても大体同じです。そういう期待をする。
今の例えに上がったものは、伝聞にせよ印象にせよ、ある程度の時間をかけて観察された結果、貼られたレッテルです。本人もそういうレッテルが貼られる行動をしている。だから本人も、そう不自由しないでそれなりの行動が取れます。(まあ不本意なレッテルを貼られてしまってストレス貯めてる人もいますが、それは別の話)
ところが結婚って、「今日から貴方は私の夫/妻です」ってことになるでしょう。この夫/妻ってのもレッテルですよ。そしてその急に貼られたレッテルに、人間はそんな素早く対応していけるもんじゃない。どっかで無理が出ます。
まあ新婚ホヤホヤっつーと、お互い新婚ってムードに酔って、張り替えたレッテルについてあんまり意識しないんですが、しばらく時間が経って酔いが覚めると、急にレッテルに沿った要求をするようになっていきます。この、酔ってる間に自分を作り変えられれば良いんですが、それが出来ないと面倒なことになります。
この酩酊、男女一緒に覚めるってことがほとんどない。どっちかが先に覚めちゃう。そうすると、覚めた人と酔ってる人では会話が成立しなくなる。飲み会に後から参加したとき、入った時点でもう会話が成立しなくなってる人とかいるでしょう。あんな感じ(笑)
飲み会だったらその場限りだし、相手にもそんなに期待してない(または諦めがつく)から良いんだけど、結婚ってのは毎日のことだし、生活を共にするんだから期待も大きいですよ。フラストレーションの溜まるスピードも尋常じゃない。しかも結婚生活には妙な社会的拘束力があるから、フラストレーションを発散する場も限られてる。
爆発しますよ、そんなんじゃ。
まあそんな爆発を回避したり解決したりしていくのが共同生活なんじゃねーのかって思うんですが、どうも結婚というと甘いファンタジーが先行して、その手の現実がなおざりになってしまう気がするんですよ。
亭主関白になる旦那さん。
化粧しなくなる奥さん。
アンタら、結婚する前からそんなだったか?
緊張感が持てなくなると、辛いですよ、イロイロ。
だから結婚はスタートでもゴールでもない。
変にスイッチしない方がいいです。
……とか、なんかそんな説教をしてました(笑)
まあ、こういう考えだと“ラブラブな新婚生活”なんてのはナシになっちゃうでしょうから、それはそれで寂しい気もしますが(笑)