[死生考] 情報死

 基本的に益体もない与太話です。
 ヒマな酔狂人以外は読まん方がよかろうと、ここに宣言しときます。
 ……と、責任回避をしておいて。

 


人間存在の「死」を考えたとき、物理死情報死があると思った。
 物理死とは一般的にいうところの死。生物としての生命活動を終えたときに来るもの。
 情報死とは、情報の途絶。情報の更新が一切されない状態のこと。
 この区分は影響を与える領域の違いと考えるといい。

 人間が物理存在として生存する限り、物理領域に影響を与え続ける。
 呼吸し、飲食し、運動し、排泄し……これだけでも、まあ地球全体からすれば微々たる物だが、充分確実な影響を与えている。物理死とはこうした影響を与えられなくなった状態のこと。極限まで進めれば、骨すら土に帰するまでは物理死を迎えないことになってしまうが、今はそこまで考えずに、とりあえず消費活動(主に呼吸および飲食)を停止するまでと考える。

 対する情報死。これがちょっと厄介だ。
 情報領域の影響は、個人が物理死を迎えただけでは終わらない。
 たとえば生者が個人について語ったとき、その情報を摂取した人には影響を与えている。
 ところが同時に、物理的に生きていても情報死を迎えることはある。
 特定個人が生きていたとして、その個人の情報をまったく伝えなければ、影響を与えることはできない。
 これは情報死というものが絶対的ではなく、常に復活の可能性を有すること、それから情報死という概念が極めて個人的な主観の中にしかないということを意味している。
 物理死に比べて、随分と曖昧だ。
 だが、その曖昧な主観の中での話だからこそ、情報死はより重要だ。

 人間は、人間社会における人間は、常に情報存在に他ならない。
 人間は物理領域において確たる物理存在だが、人間社会において重要視されるのは、その人間の情報だから。ここでの情報とは、「評価」や「印象」という言葉と言い換えても差し支えない。
 ちょっと分かりにくい話だけど、たとえば、
「僕の友人は、僕の主観(心)の中にいる」と……
 なんだかアブナイ表現かもだけど。

 僕は僕の友人について、いろいろな情報(たとえば語調や仕草、会話の内容など)を摂取して、意識/無意識に関わらず、印象という形で評価している。僕が抱いた誰かの印象というヤツは、僕の主観、僕の価値観によって、情報が分解/再構築された結果で、それが僕の中での特定個人ということになっている。
 いわゆる「僕の知ってる誰それ」というやつ。コレは当然、あらゆる「他人が知ってる誰それ」とは違う。近似値くらいは、あるだろうけど。
 たぶん、いやほぼ確実に、僕の友人から見た僕というのも人それぞれのはずだ。共通点はあるだろうけど、細かい部分で差異は必ず出ている。そういう意味では、僕と言う存在は僕を知っているあらゆる人々と同じくらいの数、存在している。これはもちろん、情報存在としての僕。

 貴方もそうだ。貴方の中にも実にたくさんの人々が評価され、再構築されて生きている。それは貴方だけの社会で、あなただけの世界だ。
 これが情報領域のヴィジョン。人間社会ってそんなだ。
 だから情報死は重要だと思う。
 要するに、情報死ってのは「忘れられる」ってことだから。
 こんなに寂しいことはないだろう。

 貴方の中にそれだけ多くの人が生きているということは、貴方が忘れない限り、貴方の中で全ての人は生きている。たとえその人が物理死を遂げたとしても、貴方の中には生きている。貴方が忘れない限り。(より広義には、貴方が生きている限り)
 だから、たとえ物理死を迎えた知人、友人がいても、その人のことを貴方が大切だと思えるなら、折々にその人のことを思い出して、話し合えばいい。あなたがそうして覚えている限り、その人は完全死――物理/情報両面の死――を迎えることは無い。

 逆に、さっさと死んで欲しいヒトがいたら、忘れてしまうに限る。そうすることで、少なくとも貴方の中のそのヒトは死んだのと同じだ。また、恨み骨髄、忘れたくても忘れられないヒトもいる。
 そういうヒトには徹底的に罵詈雑言を投げかけて、人間存在としてどうしようもなく落第なところまで貶めてやればいい。少なくとも、貴方にとってそのヒトはそういう存在なのだから。

 悲しいかな、人間はどこまでも主観で生きている。
 (だからこそ争いも起きるんだろう)
 何もかもが思い通りにゆかないこの世の中、せめて自分の思いの領域くらい、好きにしたっていいじゃないかと思うんだけど、どうだろう?