[短篇] 02 : 地図にない国

 ツーッ ツーッ ツーッ
 うす暗い部屋の中、受話器から漏れるリピート。
 留守番電話のLEDが、まるで片目の悪魔のように瞬いていた。
 サイドデッキにもたれかかるシルエットは、今にも溶けてしまいそうなほど、はかない。


「朝だよ」「おはよう」カチャリ

 毎日のように交わされた、朝の儀式。

「おやすみ」「おやすみ」カチャリ

 毎日のように交わされた、夜の儀式。
 それが途絶えたのは、新月の晩のことだった。
 いつ見てもうす汚い都会の空が、その日ばかりは透き通っていたことは覚えている。
 どうしようもなく寂しくて、小半時も悩んでから受話器をとったのに、不思議とボタンは押せなかった。
 おかしな日だった。
 きっとあの日、なにかが変わってしまったんだ。


 家族で一緒に暮らしていたころ、お父さんに読み聞かせてもらった絵本があったのを思い出した。
 『つきのうみ』という題の、古めかしいおとぎ話だった。

――月にも海はあります
  きれいな月のその晩に 耳をすませてごらんなさい
  さあさあと よせてはかえす海の音が
  ほら 聞こえてきた

 兎の尻尾は蟹にちょんぎられてしまったり、それで泣いた兎の涙が海水になって月に海ができたり、月の王子さまが兎を慰めたり、兎はうすと杵で蟹に仕返しをしたり、それはどこかで聞いたことがあるような、ごちゃ混ぜのおとぎ話だったけど、私はそれが大好きで、何度も読んでとせがんでいた。
 懐かしい、やさしい記憶だった。


 やっと電話が出来たのは、それから三日が経った夜のこと。
 それなのに、受話器から聞こえてきた言葉はたった一言、

「さよなら」

 見上げた空には、たよりなげな三日月がぽつりとあるばかり。

――きれいな月のその晩に 耳をすませてごらんなさい
  楽しそうな笑い声 月の国から ほら