[夕映えの物語] 01.のどかな日々


「どうだい。少しは慣れたかい?」
「ええ。良くしていただいてますから」
「そりゃまあ、あんたなら、そうだろうなあ」
「……?」
「ああ、いやなにね。気のいい奴らだからさ」
「本当に。理解者(、、、)が多くて助かっていますわ」

/–

 私立清蘭学園。
 地元の人たちからは旧名の「清代(シンダイ)」で親しまれている、一風変わった優良校である。
 小中高大の一貫教育で「生徒自治」を押し出したその校風は、通っている生徒を多彩にする。
 類い稀なる運動能力を持つスポーツ選手もいれば、欧米であれば間違いなく飛び級で進学しているだろう“超”のつく天才児もいる。神秘的なカリスマで支持される女優の、隠された学歴が清蘭であることもある。
 もちろん、多くの生徒はごく普通の標準的な生徒であり、能力的に非凡なものは、そう多くはない。
 だが、人格形成の面で、大きく異なっている。
 清蘭に通っていると、そうした非凡も平凡も、ただの個性に過ぎないことを学ぶ。
 そして子供の頃から「天才」と言われる人々を見ているせいで、限界というものに対して否定的な、とにかく挑戦的な人間に育っていくのだ。
 よく言えば活発で大らか、悪く言えば非常識で規格外。
 しかし、それでも清蘭出身には成功者が多く、<暮間市>での清蘭の評判はすこぶる高い。

 そうなれば、いわゆる「偏差値」が高くなってしかるべきところだが、清蘭にその常識は当てはまらない。
 なにしろ合否判定の基準があまりにアバウトなのだ。
 これまた徹頭徹尾、人格が重視されている。
 内申書も、筆記試験も、清蘭の入試では大した意味をもたない。
 作文、そして面接一発勝負である。
 これでは偏差値もへったくれもない。
 そういう意味では、そもそも学校自体が非常識なのだ。
 生徒がそうなっても、誰も文句は言えまい。

「おう、プリント配るぞ」

 柊真琴は、去年から清蘭学園の高等科で日本史を教える新任教師だ。
 わら半紙に印刷した、手作りのプリントを配りながら教室を見渡す。
 真面目にノートを取っている生徒もいれば、隣の生徒となにやら小声で話している生徒もいる。
 ふと、ぼーっと外を眺めている生徒が目に付いた。

(俺もあんなだったのかな)

 そう思うと、おかしな笑いが浮かんでくる。
 プリントを渡す手が止まり、受け取ろうと手を出していた生徒が困っていた。

「おっと、すまんすまん。そこ、田中。お前だお前。好きな子は体育の授業中か?」

 どっと笑いが起こる。
 田中は「ばっ、ちがっ、おっ、あえっ」などと妙な慌て方をしていた。
 もしかしたら図星だったのかもしれない。だとしたら、悪いことしたかな。

「教科書だけじゃ足りんからなー。見ろ。これが楽しい日本史だ」

 笑いを静めるため話題をむりやり切り替える。
 そのプリントの内容といえば、二つの四コマ漫画であった。
 一つは烏帽子に「ふかくさ」と書かれた男が、ラブレター片手にのたれ死んでいる。
 もう一つは甲冑に「こたろう」と書かれた男が、怒って暴れている。
 どちらもシュールな四コマ漫画であった。再び生徒が笑う。

「これが何のエピソードだか、十分以内に探せー。ヒントは副読本の六十ページから七十四ページだ。はい始め」

 生徒は副読本を広げて、ページをめくりながら「ふかくさ」と「こたろう」を探しだす。
 中には漫画に落書きしている生徒もいるが、柊は注意しなかった。
 外を見る。体育の授業をやっているのは、どこのクラスかな?

「――ぎ先生? 柊先生?」

 振り向くと、教室前側の扉から、女性教師が呼んでいる。
 ドキリとした。
 名前を、天野雫という。
 四年前から<暮間市>の清蘭学園高等科で、国語を教えている。
 柊が新宿校にいた頃、クラス担任だった先生だ。
 そのせいで、いまだに

「あ、はい、センセ」

 と学生気分が抜けない。
 クラスの生徒たちが、小声でなにか話し合ってはクスクス笑っていた。
 生徒たちの間では、柊が天野に片思いしているとの評判がある。
 二人とも、そのことはまるで知らないのだが。

「あー、ぇふん。そのまま調べておくように」

 急に偉そうに口調まで変わるのだから、まあ噂されても仕方あるまい。
 おかしな視線を背負ったまま、柊は廊下に出た。

「えと、それで何でしょう?」
「平坂さんなんだけど、あ、D組の」
「ああ」

 1年D組は、柊が副担任をしているクラスだ。
 今日は担任の中本教諭が休みなので、クラスの話は柊に回ってくる。

「平坂が、どうしました?」
「急にいなくなっちゃったんです」
「え?」
「前の時間に体調が悪いからって保健室に。それで今、様子を見に行ったら」

 いなくなっていたらしい。

「平坂が、ですか」

 水泳部のホープは、健康優良児だったはずだが。
 朝のホームルームでは、そんな様子は見られなかった……と思う。

「そんな風にゃ、見えなかったけどな」
「柊君、この授業が終わったら今日はもうないでしょ?」
「あ、はい」
「探しに行きましょう!」
「でも俺、帰りのHRが」
「……そうでしたわね。じゃあ私と、あと非番の先生たちで探しに行きます」
「お願いします。見つかったら、連絡は携帯の方に」

 分かりました、と言うが早いか天野は廊下を走っていった。
 ローヒールの小気味よい音が、遠ざかっていく。
 なんとなく眺めていると、廊下側の窓があいていて、生徒たちがのぞいていた。
 男子のニタニタ笑いと、女子の少し怒ったような表情が、柊一人に向けられている。

「こら、お前ら真面目にやれ!」

 柊は顔を赤くしながら、なるべくボリュームを抑えたつもりで叱りつけた。
 十五分後には、そのときのエピソードが両隣のクラスに知れ渡っていた。