デジタルゲーム的に FPS バンザイな国にいるわけですけども。
そこで夕食後にちょっと酒を入れつつ、アクションゲームの面白さとモーションキャプチャとか技術的な(特に 3DCGI との)関係についてアレコレ聞いてた。あ、僕は飲んでません。禁酒令だば。
端的な結論としては「新しい楽しみを見つけないと仕方ないよね」ってトコに落ち着いたんだけども。昔の、ドット画のアクションゲームと今のリアルな 3DCGI のアクションゲームは、こと「楽しみ」の質にしても訴求対象にしてもまったくの別ものであるっていう話になったのでした。
それにしても連中よく喋る。つられて顎が疲れたよ。
とりとめのない覚書
で、まあアクションゲームの報酬系の話から。
現在のデジタルゲームでは、分かりやすいところで視覚的、聴覚的、触覚的、競技的の四つ*1四つ=後まあ Wii 系とか Kinect みたいな体を動かすゲームなら「運動的」って報酬系を入れるべき? って話も有ったけど「身体に直接報酬が発生しているわけじゃない」って意見もあって棚上げ。に対する報酬系がある。報酬系って要するにアウトプットなわけで、グラフィック、サウンド、バイブレーション(+重低音)、スコア、くらいに捉えてくれちゃって良い。
今回の話は特に 3DCGI による変化についての話だったんで、グラフィック面ね。ここの報酬系についての話になって。(この辺の前提を抑えるまでの話がスムーズに展開されて内心こっそり感心したり)
ドット画と 3DCGI との違いっていうのは、シンプルに言えば「どれだけ自然であるのか?」ってことなんだけど、そこに「明確な非現実」たるドット画と、「現実と非現実の境界線上」たる 3DCGI との差が出てくるわけで。ああ、マージナルなところにいる子供にとってはドット画にリアルを見出すことはそれほど難しくないんじゃないかとか、実写マリオとか実写スト2とか実写モーコンとかどないやねんみたいな、そういうのは置いといて。
ドット画のモーションって、現実味がある必要性は無いわけね。もちろん現実味があることによって生まれる面白さっていうのも有るし、ゲームが「子供のおもちゃ」と見做されることに対するアンチテーゼとして「映画と見まごうばかりの映像表現」みたいな頑張り方をした歴史もあるわけで、現実的であることを追求したドット画っていうのもたくさん有ります。有るんだけど、最初からそうだったわけでもないし、現実味のないドット画のアクションゲームがイコールつまらないわけでもない。マリオとか今でも遊べるわけで。故に「必要性は無い」と表現しています。
で、それに対して 3DCGI のトライアルってのは、常に現実味があることを追求している面があって。モーションキャプチャや物理演算エンジン等によって「現実をデジタルに落としこむ」ことで土台が作られ、そこにゲーム要素を加算していく。たとえば次のような開発過程があったり。
言わば加算現実*2関係ないけど「ゲームとは減算現実である」なんて考え方もできるよなーとか思ってるので、この辺またの機会に掘り下げてみたい。とかそんな部分があって、これはまあ現実味があるからこそ没入できるし、没入できるからこそより強くストレス-カタルシスによる報酬系、スコア面の報酬系が活きてくるっていうロジックかな? 日本でもむかーし、『ファイナルファンタジー』の 7 から 8 あたりの頃に「インタラクティブムービー」なんて言葉が出てきて色々言われたりしてたっけ。
とはいえ 3DCGI にももちろん「現実味がないことを笑う」面白さってのもあって、たまに GTA のバグとか Youtube に上がったりしてるけど。そういう面白さ、楽しみ方っていうのも確かにあるんだけど、とはいえ、基本的にはその楽しみはゲーム設計における中核ではなくて。
今回、話してて「あ、やっぱりそういう感覚を覚える人もいるんだ」って思ったのは、「画面がリアルすぎて、コミカルな出来事を笑っていいのか一瞬躊躇う」感覚。これがドット画だったらそんなこと無いのにって話があって、たぶんそれはドット画と 3DCGI との差ではなく、非現実的か現実的かの違いなんだけど、開発上の必然性に対する課題としては、確かにそういうことはあるんだろうなっていう。
これは余談だけど、リアルすぎる X-Rating のゲームを問題視する感覚には、こういう要素もあるんだろうなー。とかね。
そこで「だから 3DCGI で作るのをやめよう」という方向も有れば、「ゲームと現実は全くの別ものだ」ということを明確にしていく方向も有るし、「同じ傾向のある映画を始めとする時間表現が何故受容されているのか」ってところから広報戦略を立てていくって話も有るだろうと思う。このたった三つの選択肢ですら、それぞれが(三つめなんかは特に)実行されて結果が出るまでには相応の時間がかかるわけで、安易に、性急に解決しようとしたり、また解決できるとは考えないほうが良いだろう。ということになった。
閑話休題。
とにかくその「現実味のある動き」を基調とすることによって、かつての「現実味のない動き」だからこそあった面白さがスポイルされている部分はあって。それは例えば「このキャラクターを操作してどんなアクションができるんだろう?」っていう所からの、ゲームステージとキャラクターのアクションとの組み合わせで生じる現象があって。これは現実味のないキャラクターの方がビックリ箱的な面白さは有ったと思う。「あ、そういう事になるのか」っていう驚き。
それはゲームの演算エンジンに対する挑戦で、いわゆる「裏ワザ」的な、致命的でないバグをゲームに活用していく面白さなわけで、それを現実味のある 3DCGI の画面でやられると、驚きよりも「なんでやねん」っていう変な笑いになっちゃったりする。それはそれで面白いし、非現実とのマージナルなところにあるゲームの中には、今でも残ってたりもするんだけども。たとえば――
――これの最後、3分53秒からの竜巻旋風脚(笑)なんかは、昔からあったアクションゲームのユーモラスな面白さだろうなーとか思うのですね。
で、逆に「現実味のある動き」を追求したことによって生み出された面白さってのも絶対にあるだろうって話になって。じゃあそれはどんな面白さかっていうと、これまた物理演算エンジンの細密さによってなるスキル*3スキル=プレイヤーが行えるゲームにとって意味のある行為の拡張かなーとか。
ゲーム的なオブジェクトデータの管理をより細密にすることで、現実で取りうる行為をゲーム内でも取りうるようにすること。それによって現実には倫理的/法的に禁止された行為を実行することが可能になったり、あるいは非現実的な舞台(たとえばファンタジーワールド等)を現実味のあるものとして描き、その中にトリップすることが可能になる……というもの。この辺はいわゆる『Grand Theft Auto』や『The Elder Scrolls』等の、いわゆるオープンワールド系のゲームが開拓してる分野なわけだけど。
それも単に現実的であればよいとは限らなくて。たとえばむかーし『バイオハザード』初代だったか、開発時に銃撃の精度をしっかりしすぎたせいで難易度が馬鹿みたいに高くなって、お偉いさんがプレイしてみたら全然銃が当たらなくて(「なんで当たらないんだ!」「ちょっとズレてます。今のは顔の横に飛びました。その前は左脇の下あたり」とか)ダメ出しを食らった、みたいな話を聞いたことがあって。
まあこのエピソードが事実かどうかは知らんのだけど、やり過ぎはよくない、というのは確かにあるんだろうなとか。でも逆に、競技としてのピンホールショットは現実的な 3DCGI の方が圧倒的に映えるだろうし、物理演算エンジンばりばりでやった方が作業感も減ってガッツリ集中してカタルシスを感じられそうだとか。
そう考えると現実味というのは必要に応じて設定されるもので、十全な演算が行われれば絶対に面白いゲームになるというわけではないよねっていう。
たとえば『バーチャファイター』とか『鉄拳』とかの 3D 格闘ゲームで空中コンボが出来なかったらどうだろう? とかそういう話。
ただ、現実味をとことん求めていきたい部分っていうのもあって、さっきのモーションキャプチャで人間が喋ってる時の表情を取り込む映像もあったけど、ああいった「不気味の谷を超える」トライアルっていうのは、こと 3DCGI によって現実味を作り出していくゲームでは必要不可欠になっているんじゃないかとか。それがエンパシーゲーム*4エンパシーゲーム=共感と感動をデザインするゲームの研究と並列で進むんじゃないか。なんて話になったり。
エンパシーゲームについては、日本ではアドベンチャーからのサウンドノベル(ビジュアルノベル)、ノベルゲーム分野でいわゆる「泣きゲー」なんてのが有ったりして、僕ら日本のアニメ(オタク)文化に慣れ親しんでる人間としては、その辺については必ずしも現実味の有るグラフィックを必要とはしないんじゃないかってのがあるんだけども、慣れてない人間からしてみるとあれに没入するのは難しいっていうのがあるらしく。
あの手の BESM*5BESM= Big Eyes, Small Mouth。「大きな瞳と小さな口」という日本のアニメ絵に対する評価。 なイラストに対して、慣れが全く無いって人が「現実味の無さはシンプソンズと同じなんだよ」って言ってて、そら分からんわって話になったり(笑)
そんなわけで、エンパシーゲームをより広いユーザに訴求する、ゲームを文芸表現メディアとしてデザインする上では 3DCGI って方法論は一つ確かにあるべきもんなのよ。という結論になったりしたのでしたった。
References