ということで 2/24(金)、やっと観られました『ベルセルク 黄金時代篇Ⅰ 覇王の卵』。
以下は手帳にメモした鑑賞記録からの抜粋。(文字だけで読めるのは珍しい(笑))
pre – movie “BERSERK”
久しぶりに自分で前売りチケットを買った映画だった。日頃から時間に追われ、時間に使われる日々を送る一人のワーカーホリックとして、前売りというのは買っても無駄になることが少なからずあるわけで。今回にしても結局、上映開始から3週間が過ぎてようやく、千切るようにして無理矢理に作った時間で観に行くことになった。本当は昨日見に行くはずだったのが、不覚にも仕事が終わった安心感で眠ってしまったのだから情けない。
12時枠で行くはずだったのが、16時枠になった。無理矢理作った時間だったが、そのために取材時間を変えてもらっていた相手方から「やっぱり予定通りにしてくれ」と言われたので、これはもう仕方がない。金曜の夕方、学生客が一番多い時間になりそうだと憂鬱な気持ちになりながらチケットを買う。全席指定だったが、後列の端席が空いていたのでそこに座った。少し嫌な予感がした。
眠ってしまわないようにポップコーンを買い、上映が始まるまでの退屈なCM時間をやり過ごす。他のアニメ映画のCMが、ことごとく高音域の声でウンザリする。どちらかと言えば重低音がウリの劇場で、この音域はどうも具合が悪い。元々が中低音好きなこともあって、なんとなくテンションが下がっていた。毎度オヤクソクの「STOP映画泥棒」のCMにちょっと笑う。客席が半分ほど埋まっただろうか。そろそろ上映が始まる。
以上は上映が始まるまでに、薄暗がりの中で野帳にメモしていた内容。
読み返したら「前売りチケット買ったのに、何でチケット買い直してんねん」って説明がスッ飛んでんのね(苦笑)
これはアレです。前売りは行けない可能性があったのでスタッフに譲っちゃったのでした。(Twitter見てないと分かんない)
んで以下が鑑賞後にメモした内容。
ネットで公開されてる「最初の 10分間」を除き、強くネタバレになる部分は除いてあります。
movie “BERSERK”
結論から言えば、それはほぼ予想通りの作りだったと思う。映画に意外性を求めているなら、これは大分厳しい評価と言えるかも知れない。劇的な評価はし難い、言ってしまえば無難な作品ということになる。「原作自体のクォリティの高さ」を棚上げするなら。
とても丁寧に、そして巧妙に原作を映像化している。巧すぎて平凡に見えてしまう、典型かもしれない。エピソードのいくつかに細かい差異が見られるが、それが「何故そうなっているのか?」ということについても考えてみる必要がある。原作ファンとしては「原作に忠実ではない」とか「このシーンは後のあのシーンへの伏線になってるのに変えていいのか」とか言いたくなる気分がないわけでもない。あるいは「ピピンもっと出せ」とか「ピピンもっと喋れ」とか「いやピピンはもともと喋らない」とか……そうじゃないか、えーと「ジュドーもっと出せ」とか「コルカスの悪態はもっと強いのが欲しかった」とか「いやそこ侍女喋りすぎ」とかは有るんだけど、実際にそれをやると全体のバランスが大きく崩れそうなくらい、精緻な作りだった。(ちなみに侍女のセリフに原作にない要素が含まれていた――と思う――のは、そのすぐ後の、あのシーンを描かないためだったんだろう。何故描かなかったのか? それは……続編を見ないとわからないのだ。なんてこった!)
では原作の何に対して忠実であったのか。誠実であったのか。それはもう細かなディテールの掘り下げ、凝り方ということになる。あの偏執的なまでの書き込みの細かさ、同じものが2つと無いような、全てがユニークアイテムで形作られた世界。その表現に対する誠実さだったと思う。原作にも見られる「世界を切り出して見せる」というアプローチを一切崩さない。大軍同士の攻防戦で描かれる兵器の数々。指揮官の突撃師事に続いて吹き鳴らされる角笛。いかにも実利重視と言わんばかりにチグハグな色合いの三角屋根の破城槌は、そのくせ槌頭にはしっかり山羊の頭の造形が施されている。投石機からは「とりあえず当たって壊せればいい」とばかりに見境なく撃ち出していく。梯子を掛けて登っていった兵は、城壁を守る兵に突き落とされ、下から追うように登っていた兵を巻き添えにしていく。空はあんなにも美しく澄んでいるのに。既に実写――というかCG――で同じような表現をしている作品もあるが、アニメでここまでやってのけられると、また少し違った感動がある。
バズーソとの一騎打ち。後に代名詞ともなるドラゴン殺しと比べると貧相な、それでも他の兵士と比べて異様に長い剣。他の傭兵たちがせせら笑う。「見栄っ張りが」と。ランツクネヒトを思い出す。戦場を駆ける伊達男たち。彼らは実力をもってその威容を示す。無骨で見栄えのかけらもないガッツもまた、同じように力を見せつける。何度も何度も上段から振り下ろす。バズーソは防戦一方。水平に構えた戦斧の柄で、ひたすら防ぎ続ける。確かこの辺はコミックスでも同じように戦っていたと思うが、映像にされると、これが結構、野暮ったい。バトルマンガの剣戟を見慣れている人なら、たぶん隙を突いて蹴りを繰り出すとか、武器を持ち替えてナイフを投げるとか、そういうアクションを期待しそうなところだけど、そうはならない。力押し。我慢比べ。そういった泥臭い戦い。
遠景。鷹の団メンバーによる一騎打ちの観戦。原作ではもっとボカして表現されていたと思うけど、ここでははっきりと見せていた。このカットが入るから、上段一辺倒の泥臭い戦いは変えられない。
カメラ戻ってバズーソとガッツの戦い。ひときわ印象的な、金属パイプを叩いたような独特の音がする。やっと一呼吸。しびれを切らせたバズーソが攻勢に出る。戦斧と剣が咬み合って、斧の刃に亀裂が入る。引いてすぐさま両者の次撃。相打ちかと思いきや、砕けた斧刃はガッツの兜を飛ばしただけで、ガッツの胴薙ぎが命中。バズーソは倒れる。降伏を申し出るバズーソに、兜切りの一撃を加えてグロシーン。その後、恩賞のシーンとなる。ここでひとつの問答が行われ、ガッツは答える。「そいつァ食えんのか?」
(中略)
ここで冒頭、長々と書き起したバズーソ戦のエピソードについて思い出すと、この「3年間」という経過や「昔の俺じゃねぇ」という言葉がどうやって表現されているのかが見えてくる。それを見てきた観客には分かるが、同じくらいそれを見て来なかった人間には分からない。伝わらないもどかしさ。そもそも判断基準が、価値基準が違うのだ……ということに気付くことは、まだできない。ガッツも観客も、まだキャスカのことを知らない。グリフィスのことを知らない。
そういえば作中、原作を読んでいなければ分からないシーンがひとつある。原作を知らなければ「アレは何だ?」と思うし、原作を知っていれば「これじゃ分からんだろう」と思う。たぶんそれは次回、ドルドレイ戦のあのエピソードで語られるんだろうな、とか予想するわけだけど、果たして「続きものだから一作で分からない部分があっても構わない」という作り方がどう評価されるのか? というのは分からない。映画というエンターテイメントとしては、それは欠点だという見方もあって当然だろうし、それは観客に対して不実だと言う人も出てくると思う。しかし作品世界に対しては恐ろしく誠実だ。登場人物に対して病的なほどフェアだ。分からないことは分からないし、知れないことは知れないのだ。だからこそすれ違う。そうなってしまうのは登場人物たちの責任ではない。観客に神の視点を弄ばせるようなこともしない――なにしろこの世界には別の「神」が控えているのだし。
最後のシーンで、この物語の三人の主役が映し出される。その部分だけが、どうにも原作のテイストから外れているような違和感があったんだけど、それがこの作品を映画化した意味だという気もする。ただ誠実たれ。そう考えると「既に実写で描かれているような攻城戦のシーン」に、わざわざアプローチした『意志』に思い当たった。
そうしてこのメモの冒頭に帰る。これはとても丁寧に、細やかな気遣いによって作られた映画だ。時には原作以上にガッツとの重ね身にさせる、映像化したからこそ可能な表現が、原作を壊さないように織り込まれている。より深くあの世界を、登場人物を感じたければ、見ておいて全く損はない。問題はこの手記がアップされてから、上映日が後どれくらい残っているかということだけだ。
……長いね。
そして偉そうだね。
なんかちょっとこう、読み返して真顔になっちゃったよ…orz