鏡さんの記事群から TRPG の「ゴールデンルール」の話がちょっと流れてるんだけど。
そういやアレを「実用」や「学習」ではなく「教育効果」で読んだ記事ってあるのかしらん?
……なんて考えた。
つまり「それを守らせることで相手を教育する」っていう方向の。
ページの内容
教育ツールとして見るゴールデンルール
僕の感覚では、あれって古風な――武道/武術なんかに見られた――「弟子にガツンと一発くらわせる」手法なんじゃねーかって思ってるのね。
この教育効果は「指導者との能力差を体感させること」で「指導を素直に受けさせる」ってモノ。(当然、体感させる「能力差」は「入門者の目的」と合致したものでなければならない)
そうしておいてから、指導者は「守破離」に沿った学習プランをデザインし、提供する。
守破離ってのは、えー――
- まずは教えを忠実に守り、
- その教えに対して疑問を持ち、教えと異なる方法も合わせて考えを進め、
- 理解を経て自分に適したモデルへと再構築する。
――みたいな感じの学習モデルで。
最終的には術理の理解から応用まで組んで一人前。
これには一定の効果が有ると思ってます。
まあ、あるからこそ綿々と継承されてきたわけだし。
ゴールデンルールが無かった頃は ~ 乱立する道場
ちょっと話は変わるけど、ゴールデンルールが無かった頃の話をすると。
この手の話って、当時はルールブックの外側に配置されてたんよね。
たとえば、えー……
軽く Amazon で「ゲームマスター」を検索しただけで、これくらいは出てきちゃう。
それから、以前【戯言。】の方でまとめた『○○がよく分かる本』のシリーズ。
あとはリプレイ本やら TRPG 雑誌の特集記事やら。
そういう色んなところに、ライターごとに違った様々な言葉で伝えられてきたモンで。
この頃には大上段の定義文ではなかったんで、今みたいに恭順と反発みたいな反応は無くて……
ああ、でも「○○はノリ優先でルール無視するからなァ」とか「××はルール遵守っつーのにバランス悪ィんだよなァ」とかいう、ライター個々人への反応はあったっけ。
こういうのはまあ、色んな道場が乱立してたような感じで。
どの門を叩くかによって、内容的にはそれほど違わないんだけど、使われる言葉が違ってる。
そうするとまあ、ちゃんと内容について理解を深めるまで、互いに共通言語にできないんですね。
本当は同じことを言ってるのに、具体例だけで語られるから本質に迫れない……というか。
最初の「ガツン!」
で、まあ「ガツン!」ってのが実際にどういうことかというと。
そりゃまあルールブックのポジションについて、考える必要がある。
ゴールデンルールについて語る多くの人は、みんな TRPG の経験者なんですね。
それもそれなりに長い期間。
その間に熟成されたものがある。
その間に練り上げられ再構築されたものがある。
だからこそ、原典に対して色んな反応をする。
でもあのテキストが本当にターゲットにしてるのは、むしろ初心者の方でしょうにと思うわけです。
あれはジャンプスタートキットのひとつですわな。
入門者が、これからゼロから独学でこれらのセンスを身につけるわけでなく、最初に 10くらい下駄を履かせて、まずそれに慣れさせてから次のステップへと進む。
ある程度の経験がある人なら、ゴールデンルールに凝縮されたものが何なのかってのは、見当がつく。
でもアレね、遊んだこと無い人には「なんじゃこりゃ」なんですね。
そもそも「それが必要になる状況」ってのを、想像することが出来ないから。
でもとりあえず、「こういうものだから!」とやる/やられる。
そうする/そうされることで、実際その状況に遭遇した時に「ああ、あれはこういうことか」と腑に落ちるわけ。
そして「こうすればいいんだったかな」と、とりあえず習ったとおりに行動してみる。
黎明期、何もわからないままガムシャラに動いて、とんでもない間違いを犯したり、それによって時にケンカをしながら*1[ケンカをしながら] = 自分はそれで殴り合いをやらかしたこともある。手探りで見つけた方向性ってのが有ってさ。
たぶんこのレベルでは、ほとんどのゲーマーが共有しているものがあると思うんよ。
それをとりあえずの方向性に沿った動き(型)をする/させることで、次のステップを模索するためのトライ&エラーの環境が獲得できるようになるわけ。
なにしろ遊ぶ環境に入れなければ始まらないし、なんだか分からないっつーて投げ出しちゃったらそこでオシマイだから。
そうさせないためのツールとして、あれは機能させればいいと思うわけですよ。
ある文化の中に飛び込んで、その中で生活するためのガイド。
いわゆるアレですよ。
「郷に入らば郷に従え」というヤツ。
経験者に思うこと ~ 次のステップを考える
独学というものがどれだけの無駄と労力を要するか。
それは長年やってきた人こそ知ってると思います。
そうしてゼロから大海の水を一滴ずつすくって、自分を築いてきたからこそ。
もっとも、それをちゃんと言語化して教育モデルを編み上げた人がどれだけいるかは疑問だけども。
なにしろ「自分が遊ぶ」だけなら、過ぎた道を振り返る必要なんて無いんよ。
自転車に乗れる人が、自分が自転車に乗るために「自転車に乗れるようになるまでのトレーニング方法」について整理編纂する必要なんか、これっぽっちもないわけでさ。
だから熟練者はカジュアル環境にあるかぎり、基本的にはスルーして問題ないと思うんよ。
そもそも熟練者で「ゴールデンルール」を、興味本位ではなく読んだ人って少ないんじゃない?
ただ、これがメンツが頻繁に入れ替わったり、ニューカマーを受け入れる立場にあるようだと、変わってくる。
セッション中、あるいはセッション後に、実際のプレイの中で起こったことについて「あれはゴールデンルールの○○に反するんじゃないか?」なんて質問があったらどうしよう? って話になる。
文章は、あくまで文字の羅列なんだよ。
どんだけの意味を込めた言葉だって、読み手次第でどうにでも変わっちゃう。
だからまあ、そうした質問・疑問・反論みたいなものは、いつだって起こる可能性はあるわけ。
今アレに反発する人の多くは、自分のスタイルがそうした指摘を受ける可能性についてボンヤリ考えて、なんとなくの忌避感を覚えてるんじゃないかと思ってるんだけど。
そうしたとき、頭ごなしにゴールデンルールを否定するんではなく、認識のズレを埋めるためのアレコレを考えられるようにする必要が、指導者サイドに立つ人間に、必要なことかなーとは思うわけ。
自分の遊び方がゴールデンルールに沿ったものか、あるいは沿わないものか、どちらにしたって質問はあると思う。あるいはそういう質問が出ないかもしれないけど、質問されない環境が良い環境とは限らない。
相手はただ抑圧されてるだけかも知んないしね。
だから考えて、言葉を生み出しておくことは、悪いことじゃないと思う。
というか……まあ「べき」論で語るのは好きじゃないんだけど、そうした方がいいと思う。
そういうのが公開されて、蓄積されていけば、また新しいゴールデンルールが生まれるかもしれないし、新しい遊び方が広がるかもしれないし。
References
↩1 | [ケンカをしながら] = 自分はそれで殴り合いをやらかしたこともある。 |
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余談。あるいは本題
で、まあここからは私見というか、余談というかなんだけど。
ゴールデンルールを基本とした教育モデル。
それは一つのモデルとしてアリだと思うんだけど、「それしかないのか?」ってのを考えるのは別に悪いことじゃないと思う。
たとえばゴールデンルールによる学習が、武術みたいな自然式トレーニングとするなら、格闘技/スポーツに見られる機械式トレーニングは無いのか? とか。
……いや、この例えはちょっと的外れだと思うけど。
(どっちかというとゴールデンルールによる学習はスポーツ的だし)
商業ではとりあえず、「ルールブック+リプレイ」で、基礎と実用についてのモデルを作ってる。
サイコロフィクションなんかは、その線のパッケージとしては相当完成してると思うし。
で、それはそれで良いとして、他にもなんか方法って無いモンかね?
なーんてことを考えたりしてたんだよ。