[memo] 討論と正論と諦め

 Twitter でダラダラ書いてたメモ……の、補記。

  • 自分の考えを深めることと、自分の考えを広めることは、当然イコールじゃない。ただ自分の考えを深めるために他者の力を借りたい時、まず自分の考えについて理解してもらって、話はそれからだ……みたいなことは良くある。
  • で、そのとき目的忘れて感情的に、承認欲求に身を委ねちゃうと大概ポシャる(笑)
  • あと、変に攻撃的になっても、相手の発言の範囲を狭めちゃって、自分に足りない広い視野を求めるのが難しくなるんでNG。
  • 期限の決まったサバイバルならディベートのテクニックも有用なんだけど、特に期限の決まってないコトを考えるだけだったら、のんびり構えて色んな視点を取り込んでいった方が面白いし。
  • そもそも自論のために他論を攻撃して、結果としてコミュニティそのものを沈めようもんなら目もあてられんし。
  • あー、反発から新しい視点を引き出す方法もあるんだけど。というか普通そうだと思うんだけど。それが有効に機能しそうな環境でないと、単に消耗戦を展開するだけなんで、使う場面は考えないと。

 この話自体は友人とのやりとりだったりするんだけど、互いにリポストの形を取らないから、文脈やら趣旨やらが読めなくなる(笑)
 体調不良で寝てるのが暇だったんで、暇つぶしに「ネットを討論の場にする価値」をお題に、ちょっとダベってただけだったり。
 相手のポストは非公開に設定されてるのでノータッチ。

 まあ、それはそれとして。

 個人としては、討論って好きです。ただし「課題を持ちうるもの」であれば。
 感情的な討論っていうのも、実は「相手が何で感情的になっているのか?」について思いを馳せれば有益だったりします。
 自説が「この点について感情的になってしまう人間がいる」というサンプルになりますし、「どういう対象を無自覚に排除してたのか?」について考えたり、「そうした相手がいることを仮定して、どのように文言を組み上げればいいのか?」を考えたり実験したりする場になりますんで。

 嫌なのは「無限ループって怖くね?」ってヤツ。
 感情的になりすぎていたり、相手に興味を失っていたり、論点がズレきってて言いたいことも聞きたいことも場に出せなくなってたりすると、なんかもう討論の体すら取れなくなる。
 そうなったらもう、あとは単なる体力勝負になっちゃう。
 大声で怒鳴り続けられた人間の勝ちという、まるで古代社会における長の資質みたいな話になっちゃうわけです。

 理論ってのは怖いもんで、整合性が取れているように見えるんですね……まあ、ある理についての論なんだから、整合性が取れてて当たり前で、取れてない方がおかしいんですが。
 整合性というのは正論の源になってて、正論というのはひとつの武器となりうる。特に大声で怒鳴り続けるのに便利です。整合性が取れていれば、反駁なんかは全部無効と見なすことが出来るんで、ひたすら同じことを怒鳴っていればいい。楽なんです。

 でもまあそれって実際には、「論の対象をそういう風に見たい人」が組み立ててることが少なからず有って、抜け落ちてるものが結構多かったりもします。

 仕事の話なんかでも、「客のこと考えてねぇ」とか「維持コスト計算してねぇ」とか「マーケットを一元的に捉えすぎだろ」とか思うことはしょっちゅうで。
 それはターゲットユーザの認識の違いだったり、マーケットに対する目的意識の違いだったりして、どっちが正しいとかいう話じゃなかったりするんだけど、そういうときはもう持論を展開してもズレ続けていくだけなんで、半笑いで話を聞きながら、内心はもう「お祈りメール」の文言を練ってたり(笑)

 そういうのが何度か続いて、現在では「Web を討論の場にするのはコストパフォーマンスが悪い」とか思ってて、それでまあ冒頭みたいな Tweet になった次第。

うなうな