終わっちゃったなァ。
……というのが率直な感想。
感慨に耽ったり、喪失感に苛まれたり、という感じじゃないんですよね、あんまり。
すごい好きな作品なんだけど、最終回のアレで救われた部分はありますね。しかも少佐の言う……ああ、まあそれは下記で。
微妙にネタバレも含むんで、未読の方は見ない方がいいかも?
ページの内容
語れないといいつつ語る人
最終話まで読んだ後だと、あんまり語ることが無いというか、いや「人間とは」とか、そんな概念の衝突として見たりしても面白いし、そういう意味では僕は少佐の心情にとても近い。
人間は魂の 心の 意思の生き物だ
『HELLSING (10)』 p.111
やってることは気に入らんのだけど、そこで語られている屁理屈には同意。
あくまで屁理屈認定なんだけど(笑)
屁理屈。だがそれがいい
こういう理由付けは大概、「自己正当化」の手段として行われることで、ライフルショップのオッチャンがいう「銃は自己防衛の手段として必要なものさ」ってのと同じです。
それがいかなる犯罪を引き起こす原因たろうとも。
そういう意味では博士と少佐の関係って、技術開発に勤しむ博士がいると、そうして開発された技術に社会的な意義、理由、目的を与えて政治家が実戦運用に踏み切る……なんて社会の縮図だったりします。
「戦争が科学の発展に貢献してきた」というのは、たとえば「倫理によって制約される手段を正当化することによって効率化を図る」なんて具合で、構造的にはシンプルに証明できます。
ただし「戦争“だけ”が科学の発展に貢献してきた」わけではない以上、戦争に近似する別の構造を構築できれば、戦争がなくても科学を発展させることは可能です。
たとえば経済活動なんかがソレですわな。
で、そういう別の解決策があるにも関わらず、自分が「闘争」を求めるために戦争を引き起こそうとする。で、その理由付けとして「人間」云々と言う。そんな理屈は屁理屈以上のモンではないと思うわけです。
でもまあ、だからこそ惹かれるのも事実。
それがまあ、ファンタジーの偽らざる一側面でしょう。
もちろん読んでる時からそんなコトを考えているわけではないし、実際これアニメであのキャスティングで語られたら、そりゃもう、こんな屁理屈度外視で「カッコエエ!」ってなモンですが(笑)
まあそんな話はさておいて
ちょろっと感想をば書くと、最終話のあの演出は好きです。
たとえパターンと言われようと、どうやって溶け合った魂の一つ一つが……? とかまあ謎もあるんですが、個人的には大好物です(笑)
その謎にしても、なんだろ。
そこでアーカードが繰り広げた戦いは、実は少佐の願っていた闘争そのもので、「わたしとあなたは違う」という闘争の基礎用件を満たした闘争に勝ち抜いて帰った彼は、少佐の言う「人間」じゃないか……なんて考えることもできる気がします。
妄想ですが(笑)
ヘルシング卿が死んで、国家が機関を運営するようになっていったとき、どういうことになるのか……というのもマケドニアやローマあたりの古代史から考えてみると、それはけっこう面白そう(つまり物騒)なんだけど、その辺はまあ考えなくてもいいのかな。ヘルシング世界のアメリカは今頃『FALLOUT 3』状態っぽいし(笑)
ウォルターさああああん
ベッドを処分されたセラス風に(笑)
なんだろうなぁ。アーカードって老ウォルターに憧れてた部分があったんじゃないかとか思っちゃうんですよね。書き手としては大して心情なんか考えず、物語工学のノリで(あるいは歌舞伎でもいい)作ってる気もするんですが、読者として勝手に想像すると、まあそんな感じがするんですな。
妄想ですな(笑)
ウォルターの死に様は、まあ、ああいう外法でああなった段階で決まってたんだろうし、「THE SHI」についても設定上は概ね想像はできたけど、まさかアアいう意味だったとは思ってなくて、「おー」とかひとりで感心してました。
アハトアハト 大好きだ
まあそんな話はともかくとして、「アハトアハト そいつは素敵だ 大好きだ」が、どうしてもニコ動の少佐殿が「Ievan Polkka」を歌いました【Hellsing MAD】を思い出しちゃうわけです。(笑)