いろいろ書きたいネタはあるのに

 書くネタはあるんだけど、それを書いてどんな意味があるのかと考えると書けなくなるものが大半。
 自分のコモンセンスに自信がないからなんだろうとか思う。

 一番書きたいネタの、大元になってる記事だけアップしときます。

「保証金もDRMも必要ない」音楽家・平沢進氏の提言

 と、

『プロな人』と『アマな人』の違い

 を併読したときのズレ。
 テーマの違う記事で、ズレもへったくれもないと思うかもしれませんが、平沢氏の記事にはしっかりプロの立ち位置のような話が出ていると思うんで、そのあたりから見ていくと……という話。

 あと、よりブラックに(悪趣味に)笑いたいときは、後者の記事を、プロとアマを入れ替えて読むと良いかと思われます。
 こんな感じに↓

■できない言い訳をする(プロ)出来る方法を考える(アマ)
■現状に満足する(プロ)チャレンジする(アマ)
■仕事を楽しめない(プロ)仕事を楽しむ(アマ)
■批判をする(プロ)行動を起こす(アマ)
■時間を浪費する(プロ)時間を効率的に使う(アマ)
■約束を守らない(プロ)約束を必ず守る(アマ)

驚いたり呆れたり悩んだり

 朝っぱらから憂鬱な話。

 聖徳太子(または厩戸皇子)の記述が小学校の教科書に無いヨ!
 「日出処の天子~」の行方や如何に。
 まあ、古代をバッサリ速成でやっちゃって、近世、近代、現代についてミッチリ勉強するというのであれば、それも一つの方法だろうと思って見たら……明治以降も大して詳しくないし。
 歴史を学習することによる教育的効果のうち、何に重点を置きたいんだろう?

 それはそうと、ここんとこ誰ぞと話をするたびに説教されていたりする。
 まあそりゃ僕がイカンのだろうけど、相手側もなんか勘違いしてるような気がして、といって弁明しようにも何だか妙な具合にすれ違っていて、なんとなく放っておいたらそれが毎度の事になっていた。
 相手側だって毎度毎度のお説教じゃあウンザリするだろうし、聞いてる僕にもなんか釈然としないものが生まれてしまう。……まあキッカケになる話題は大体決まってるから、しばらくその話題を封印すればいっか。

 それにしても、昨日の雨はすごかったねぇ。スコール?(関東地方)

満足と妥協

 情報と物の氾濫した現代社会において、欲しいものは探せば大概あります。
 だからみんな、探す技術ばっかり長けていくんだけども。
「欲しいものがあったら自分で作ればいいじゃないか」と、たまに思います。
 需要と供給の構図をブチ壊す、消費経済の敵みたいなセリフですが。

 山ごもりしたときに思ったんですけどね、都会って怖いです。
 カネがないと何も出来ない。
 山暮らしの間中、カネがなくても足りないものは、自分で材料とって来て作っちゃえば良かったので、まあモノの出来栄えさえ気にしなければ、大層ラクな生活をしていたように思います。
 右掌の皮が、ちょっとボロボロになりましたけど。

 まあ都会とカネのアレコレはさておいて。

 

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畳の上で死ぬ怖さ

 畳の上で死ぬというのは僕にとって怖いことです。
 どっかの戦場で、まったく無関係な「ついで」の死の方が、よっぽど怖くない。
 これまで何度か「手術をしなければ危ない」と言われてきて、その度に手術をして乗り越えて来たわけですが、去年からの「手術に失敗したら危ない」という段階になってから恐怖はより増しています。
 自覚症状といえば、頭の頂辺近くがボーっとしたり、たまに心臓のあたりに痛みらしきものが走るくらいで、これまでと何が違うのかよく分からんくらいなんですが。

 やたらと銃弾に縁があった時期もあれば、人間の脳の処理限界を体感した交通事故とかロクでもない経験もあったりします。
 それでも死に対する恐怖は、今ほどではなくて。
 結局、じわじわ近付いてくるソレが一番怖いモンです。
 それも知らんうちに忍び寄ってるならともかく、目に見えて近付いてきてるってのは本当に怖い。
 今んとこ足踏み小休止のようですが、またぞろいつ行進を再開するのやら。
 どんな手段を使おうと、当分は世に憚るつもりですが。
 憎まれっ子だし(笑)

 しばらく入院します。

病気という妖怪

 妖怪の座に、病気が座っている。
 今に始まったことじゃないが。

 こんな話がある。
 戦前のことだそうだが、郵便配達員の若者が、村はずれの家まで一通の手紙を届けに行く。
 宛名には覚えがないが、行ってみたら確かにそういう苗字の表札の家がある。
 郵便受けに入れるんでなしに、「配達でーす」とやっていたらしい。
 その家でもそうした。
 すると出てきたのは目も覚めるような美人である。
 その美人に「こんなはずれまでご苦労様。少し休んでいきませんか。お茶くらい出しますよ」と勧められたものだから、若者は「まあ少しくらいなら」と家に上がった。
 少し話した後、その美人が小用で退席する。
 若者はしばらく待っていると、後ろから「アンタ何してる」と怒鳴り声。
 さては間男と間違われたかと思い、振り返ると手ぬぐいで鼻をふさいだ男がいた。
 若者は肥だめに腰まで漬かって、朗らかに独言していた。

 さて昔なら、狐狸妖怪に化かされた怪異譚となるところだ。
 これが今なら神経がどーの、幻覚がこーのとなって、病名がつけられる。
 病名をつけた医者は、その原理を(自分なりに)理解しているだろう。だがそれを聞いた一般の、こと医学に無知な人は、ただ「そういうもの」として認識する。
 そして「病気であるから」と同情なり憐憫なりの言葉を語る。

 病気への「そういうもの」という認識の仕方は、昔の妖怪に対するソレと、なんら違いがない。
 病気は今や、そういうものになりつつある。

淡々思考ログ

・祖母の手首に腫瘍ができていて、神経を圧迫していたらしい。
 手術して三日ばかり入院すると電話が来た。
 見舞いに行った。

・良かれと思ってしていることが、実はそうでもないことがある。
 そういう判断力を、自分は欠いていることが少なくない。
 すり合せることを考えないと、すぐ迷惑な人になる。

・SOHOで買い物中のシエナ・ミラーを撮ったフォトデータを送ってもらう。
 ちょっと髪を切ったんだろうか?
 それにしても綺麗な人だなァ。

・兄に対して感情を剥き出しにしてしまうことが多い。
 兄は僕に対してそういうことをしないのに。
 ひどく悪いことをしたと後悔。

・やっと始まった『ErgoProxy』
 ネットでの無責任な評価がとても楽しみ。
 贅沢なスタッフが吉と出るか凶と出るか。

・退院してからガンオケやってねーなーと思い立つ。
 やりてーなーと思いつつも、PS2に入ったゲームはサムライチャンプルー。
 魔女がバカで好き。12ちゃい。ざっくり120歳。(ムゲンルート)

・気付くと「やわらか戦車」がちょっとしたブームらしい。
 やっぱりあの歌は何らかの電波を発しているに違いない。
 思い出すだに口ずさんでいる自分がいる。

・結局のところ、国産(T)RPGは市場の奪い合いしかしていないと思う。
 玉石混淆でいいから、とにかくモジュールを出すことが大事。
 オフィシャルは「提案」すればいい。容易にアレンジできてこそのTRPG。

・「ひな祭りパーティー」をやるらしい。
 ふと思ったが「祭り」と「パーティー」ってかぶらないか?
 この場合、正しくは「ひなパーティー」? なんだかアヴァンギャルドだ。

愛すべき不条理な推進力

 改めて考えてみるとですね。
 ビデオカードは、音楽CD(アルバム)1枚と半分くらいのお値段。
 それに対して購入予定の Macromedia Studio 8 は、そこそこのデスクトップPC が 1台買えるくらいのお値段。

 ビデオカードは、それを購入すれば MoE がプレイできるという実益を伴います。
 しかし Macromedia Studio 8 は、それを使って PBW を設計しようと画策はしているものの、実現できるかどうか分からないという不確実性が有ります。
 どちらがより合理的な選択かといえば、一目瞭然。
 ビデオカードの方が良いに決まっています。

 なのに Macromedia Sturio 8 の方が、僕のヤル気を急き立てます。
 先日入手した Vue Infinite も同じこと。
 Shade とか POSER とか Maya とか欲しいなァ、とか妄想してます。
 どれもこれも、仕事にも趣味にもちゃんと役に立つ保証はありません。
 でも欲しいし、手に入ったらあーするこーするとプランが思い立ちます。

 結局のところ「合理性」なんてもんは、不条理な情熱にあっさり負けてしまうのです。
 少なくとも僕の中では。
 そういう不条理な推進力が、実は一番強いんじゃないかと思う今日この頃。

種を蒔く人

 さまざまな種を、さまざまな畑に蒔いている。
 そういう二人の農夫がいた。
 一人はまた十そこそこの若輩、一人は四十を前にした壮年である。

 彼らの蒔いている種は、どれも美しい花を咲かせ、瑞々しい果実を付ける。
 しかしそれらの成育条件は厳しく、また時間もかかるものである。
 千の種を蒔いたところで、たった一本の成木が育つまでに、何十年も待たなければならなかった。

 若輩は、その種が育っていくのを、ただ楽しく眺めていた。
 だが壮年は、次第にそれを待つことに焦れていた。
 花が咲いた頃には、自分は既に生きていないかもしれないと。

 壮年は、早く育て、早く育てとたくさんの水をやった。
 そしていつしか土は泥となり、苗木は根付かず流れてしまった。
 壮年は涙に暮れ、悲嘆のうちに命を絶った。

 そんな夢を見た。

青天井も天井

 なんだかよく分からんタイトルですが。

 僕は、幽霊だの精霊だのの類をよく目撃する人です。
 なので僕個人としては、そういうモンは「在る」とは思うんですが、だからといって「無い」という人に「いや在るんだよ実際」とは言いません。
 なにしろ信じる/信じないの論議ほど、ナンセンスな水掛け論も無い。
 個々人が信じる/信じないを決めれば、あるいは「あったら面白い」とか「いたら怖い」とか、そういう自分なりの価値基準で決めればいいことで、ぶっちゃけてしまえばどうでもいい話です。
 山間から伸びる夕日に神を感じるのも、それを魔境だと断じるのも、気分次第。
 強要することじゃない。
 しいて言うなら「信じる」という言葉を遣ってる時点で、一度でも疑念を抱いたことがあるんだろうなと思うくらい。
 直観にとって、理も論も「よけいなもの」に過ぎません。

 青天井、即ち青空は「無限」の意味を持っています。
 ……と思っていたら、実は宇宙は青くありませんよー、と科学さんが言います。
 青天井も、天井なんですよ。限りがある。
 宇宙にだって端があるらしいですしね。

 でもまあ、宇宙を青く塗ったって良いんです。
 そういう宇宙があったって、いいじゃないですか。