「正しく描くことが面白さにつながるわけじゃない」って言うのが嫌いで。
まあリアルリアリティ志向とかそういう話。
所詮は「好き嫌い」で片付く話でしかないんだけどね。
正しさを辿れることの強み
荒唐無稽な面白さってのもあるんだけど、面白さってのは荒唐無稽さであるとは限らないというかね。突き抜けたバカバカしさだけが娯楽性じゃないよというか。
現実の“とある情報”ってのは、そこに至るまでの連続性があり、そうなった合理性や歴史があるわけで。
「何故“そう”であるのか?」ということには相応の理由がある。
で、娯楽作品のある情報が、現実のソレと同じであるなら、その合理性について考えたり、歴史を遡ったりすることができるわけだ。
それはソレを扱うキャラクターを評価するための軸として価値がある。
キャラクターを評価することは、そのキャラクターの来歴を追うことにつながっている。そこに思いを馳せる――空想する――過程で、キャラクターへの感情移入が行われたりする。
来歴に思いを馳せることは、必ずしも「作者が設定したキャラクターの正しい情報」を追うこととは限らない。辿る筋道を間違えれば、的外れなイメージを抱いちゃうこともあるわけだ。妄想を弄んで勝手なイメージを押し付ける、ということはそこで生じる。
でもそれは、それこそエンドユーザの自由な領域であって、だからこそ「作品がエンドユーザのものになる」ということにもなると思っていて。
逆に言えば、キャラクターを評価するための「正しい情報」が少なければ、キャラクターの評価は常に語られる言葉、確定情報のみで行わなければならない。それは作中での評価に依存するしかないということであって、ちょっとでもエンドユーザのロジックから外れたらもう、理不尽なものにしか映らなくなってしまう。
勿論そういう表現もあるし、それはそれで面白い作品もあるんだけどね。
でもそれでも面白い作品ってのは、どこかにちゃんとルールがあって、キャラクターの背景にアクセスできる取っ掛かりがある。それが読み取れないと、そうやって楽しめないのは一緒。
もちろん人間だから間違えることもあれば知識が及ばないこともあるんだけど、そこで開き直って「正しく描くことが面白さにつながるわけじゃない」とか言っちゃうのは、やっぱりなんか納得いかない。
……なんてことを、「正しさなんて知らん」とか書いてる人間が言っちゃったりもする(笑)