[呪文] 呪文使い


 人は自分が悪人であるということを、あまり信じたくは無い。
 故に偽善を為す。
 故に悪事に理由をつけては、より大きな善行のための必要悪だと納得させる。

 世の中は、善人であるよりも悪人である方が渡りやすいように出来ている。
 行き着く先にあるものを想像しない者はいない。
 それでもなお進むことを選ぶ者と、正直に立ち止まる者がいる。
 進む者の方が、一般的に成功者とされることが多い。

 だが、やはり心には悪行を為すを良しとしないものを持つ者の方が、まだ多い。
 まったく人間とは面白い。
 そう言って心底から笑えば、ため息とともに悪趣味と罵られた。

* * *

 善悪の心に利く呪文を、誰もが二つばかり持っている。

 貴方も好かれたままでありたいのなら「あなたは悪くない」と唱えればいい。
 呪文にかけられた者は安らぎをもって貴方に好意を献じるだろう。
 あるいは緩慢な死を招くものであっても、その誘惑に逆らえる者は多くない。

 貴方が我が身を省みずに尽くしたいのなら「あなたこそが悪党だ」と唱えればいい。
 呪文にかけられた者は剣持て貴方を奈落へ追いやるだろう。
 それでも呪文にかけられた者は動き出すだろう。貴方の命と引き換えに。

 貴方の命を賭けた行いで、得られるものが憎悪ばかりだとしても、私は貴方に言うだろう。
 「あなたは必要悪だったのだ」と。
 まったく人間観察は、呆れることこそあれ飽きることはない。

* * *

 そういえば「悪」とは「亜」に「心」と書く。
 「亜」とは「近いもの」「準じるもの」の意とされる。
 ならば「悪」とは「心に近いもの」「心に準じるもの」なのか?

 この字にその意を与えた誰かに、握手でも求めたい気分だ。