ひどく今更の話なんだけど、CATVで放送してたの見たんで。
この人は、手を縛って作らせた方が面白いタイプだと思った。
『TAKESHIS’』と『Sonatine』、比較すると『Sonatine』の方が面白い。
その理由が何なのかと考えると、要するに「無い中からひねり出すセンス」ではないだろうかと。
最初から完成したイメージを持つタイプと、漠然としたイメージを作りながらいじって完成までもっていくタイプがいる。
“北野武”は確実に後者なんだろうなぁと。
僕は観客としては二流で、純粋に楽しめないところがある。
だから理屈をこねくり回したりするわけで、まあでも正直ものすごく不器用でものすごく馬鹿だ。理屈が必要な人間というのは本質的に馬鹿だと思う(馬鹿でも使えるように構築されるものが学問であり科学であって、学者を名乗る人間たちが偉そうにふんぞり返るための道具ではない)。まあソレはでも今回の話にはあまり関係がないので横に置く。
とにかく二流の観客は、だから目の置き場がヘンだ。
『Sonatine』と『TAKESHIS’』の違いはと考えると、立場と制作費。そしてそれがもたらす自由度だよねと思った。
『TAKESHIS’』に感じた面白さは「作り手との共感」だった。
あのデタラメな(どんな理屈を付けても鼻で笑われるに違いない)編集は、編集作業はものすごく楽しそうだ。だので見ている最中ずっと「楽しそうやなぁ」と見ていた。子供が無邪気に遊んでいるのを眺めている親の心境だろうか。
対するSonatineは、もっと純粋に面白い。面白さの根っこには画面と音の使い方、役者の生の面白みがあって、なんというか映画としては普通にバラエティだったと思う。
『TAKESHIS’』は、世界の巨匠(これも馬鹿馬鹿しい表現なんだけど)として立場を確立したことで、金もあればワガママも通せる。だからアアなった。画面に弛緩したものが感じられたのはそこだろう。作り手に緊張感が無い。
『Sonatine』は金も地位もなかったから、あるもの使いでどうにかしなければならなかった。だがそれが良い方向に働いていたと思う。
以前、なにかのインタビューか「銃でバンバン人を直接殺すのは、それが安上がりな方法だから」とか「インパクトと滑稽さの両方を表現するのに簡単な方法だから」という話があった。まあどこまで本気かは知らないが、そういう経済的な側面から見ると、だから自動車が一台ポツンと走っていく引きの画面や、無音の多用なんかも「なるほど」と腑に落ちる。
『TAKESHIS’』の“ゆるさ”は『さくらん』に通じる。
あれも役者が好き勝手に動いてしまって、画面に全然しまりが無い。
監督はもう、作れるだけで楽しかったんだろうなぁ。