[短篇] 03 : ふりむいてはいけない

 


 
 ここには居られない。
 部屋を出ることを決めたのは、七日の後のことだった。
 来る日も、また明くる日も堪えようとした。
 でも、できなかった。
 部屋の中の、目に付くすべてが現実を突きつける。
 誰もが、何もかもが、口をそろえて言うのだ。
 あの人の声で「さよなら」と。
 そこから出たのは、ただ逃げたに過ぎなかった。
 どこに行けばいいのか、分からない。

 部屋を出て、どう彷徨ったかなど憶えていなかった。
 何日経ったかも、分からない。
 あの電話が、いつのことだったか思い出せない。
 そもそもそんな電話は有ったのだろうか?
 もう一度、かけてみたら何も無かったことになるんじゃ――
 そうだ、怒ってるかもしれない。
 電話を――だめだ、まだその時間じゃない。
 「おはよう」でも「おやすみ」でもない。
 町行く人々が、みんな自分を責めているような気がしてくる。
 人の居ない所へ。
 人の居ない所へ……

 そうして行き着いたのは、駅だった。
 人の行き交うはずの場所に、人を避けて歩いていたら、でくわした。
 人の行きかうはずの場所に、人が一人も見当たらなかった。
 何故?
 答えなど分かりはしない。
 何も考えられないのだから。
 そうして誘われるように、足を踏み入れた。

「ようこそ、お客さま」

 電話の向こうの声がした。

「――――――行きの汽車が、じき参ります」

 やさしくて、あたたかくて、やわらかい、声。
 ああ、心地よい。

「本日はお客さまのための特別列車でございます」

 ずっと聞いていたい、声。
 私のための。

「前へお進みください。もっと前へ――
「足元にお気をつけください。そこは段になっています――
「そうです。ゆっくりと、ゆっくりと――

 新月の晩独特の、星明かりだけの闇で塗られたプラットホーム。
 右のほうから、音がした。

 Phooooooooooo

 まるで船の汽笛のような、頭の後ろの方まで抜ける音。
 そちらを見れば妖しい二つの瞳を光らせ、闇色の列車が滑り込んできた。
 先ほどの音が夢のように、その列車からは一切の音がしなかった。

 ――いくな。

 後ろから、ずっとずっと後ろから、誰かの声がそう云った。
 誰?
 振り返ろうとすると、両肩を大きな二つの手に掴まれる。

「振り向いてはいけません
 ――さよなら
「振り向いてはいけません
 ――さよなら
「この列車はお客さまのための
 ――さよなら
「お客さまのために用意された
 ――さよなら
「あなたのための列車です
 ――さよなら
「あなたのための道行きです
 ――さよなら
「前へお進みください
 ――さよなら
「もっと前へ
 ――さよなら
「足元にお気をつけください
 ――さよなら
「そこは段に
 ――さよなら
「なっています
 ――さよなら
「そうです。ゆっくりと
 ――さよなら
「ゆっくりと前へ
 ――さよなら

 やわらかくて、あたたかくて、やさしかった、あの人の声。
 その隙間から忍び入って、ささやくのもあの人の声。
 頭を抱え、耳をふさぐと、肩を掴んでいた手に押され、

 列車の中へ、転がり込んだ。