こちらに移して始めての記事のタイトルがこれか。
満ちることの無い人間には相応しいのかもしれないが。
悲鳴の聞こえない歌とは、心の籠もらない歌という意味である。
決してSMじみた意味ではない。
音楽には情景がある。
美しい自然も、嘆きの惨状も、美しい惨状も、嘆きの自然も、音楽は描くことができる。
そういうものだ。
そして歌とは、歌詞によってそれをより鮮明にする。
歌声とは楽器のひとつに過ぎない。
そういうものだ。
であるならば、歌声も楽器の如く音色を奏で、情景を映すものであるはずだ。
私はそれらを悲鳴のように聴く。
今ここには無い何かを切望する悲鳴。絶叫。
私の耳は、よい音楽をそのように聴く。
だからこそ悲鳴を求める。切望する心を求める。
進むも戻るも在るも抗うも、切望する心あってのものだ。
もうひとつの今を、あらざる経験とリンクする魔術。
それこそが私の認める音楽だ。
だからこそ、悲鳴のない歌は要らない。
そんなものは歌ではない。ただの騒音だ。
心からの呟きは、絶叫するための絶叫の万倍も響く。
そういうものだ。
リズミカルなポップスもいい。
サンプリングされたテクノも嫌いじゃない。
もともとジャンルにこだわることは無い。
ただ悲鳴があるかどうかだ。
形式は技術であり、技術は表現の手段にすぎない。
技術が技術のままの音楽に意味は無い。
好きだったミュージシャンの新譜から、悲鳴がしなくなったことを嘆いて一筆。