ということで、こんな記事を引っぱってきた。
書こうと思って放ってあった話を、蒸し返してみる。
平沢進の音楽は大好きで、休憩時間になるとかけるのは、彼の曲か mama!milk のどちらかというのが最近の相場だ.
好き嫌いが明確に分かれるので、強く勧めることはないのだけど。
また仕事中に聞くにはパワーがありすぎるのも難点。
魂を地平に攫われてしまう。
で、まあその音楽家/平沢進が音楽著作物の扱いについてアレコレ語っている。
相変わらず独立独歩を地でいく人だ。
なにもかも自分の目で見て自分で判断を下す。
実に日本人離れしている。
このコラム(インタビュー?)を大雑把にまとめると、
「自分を取りまく環境に対して無頓着だと、カモにされるぞ」
というふうに解釈してみた。
大筋で間違ってないと思う。
まあ
今さらな話ではあるんだけど。
むしろこのインタビュー、読んでて一番スゲェなと思ったのは、
お金を払ってまで欲しいと思ってくれなければ、やってる意味がない。違法コピーしてそれで満足してしまうようなものであれば、それは自分のせいだと。作品がその程度のものでしかないと判断する姿勢を、今のところ持っています。
の部分。
敬愛する菊地秀行先生もそうだけど、こうした感性(プロ意識の一種?)を持っているクリエイターは、もうそれだけで他の一切無条件で尊敬できる。
それが自分の苦手なものを作っていようと、人間的にどれだけ認めがたい個性であろうと、ベテランだろうと若手だろうとポッと出の新人だろうと、こうした感性があればもうそれだけで満点だと思う。
評価は常に相対的であり、そのものの価値は誰かが声を大にして高らかに宣言した時点でつけられている。実のところそんな価値には大した意味がなく、結局のところ自分がそのものに対してどう評価を下すかだ。
売り手は自分のリスクに対する対価としての価値を付与するが、買い手がそれに従う必要はない。要らないと思えば買わないし、そんな安値では申し訳ないと思えばもっと高い対価を払えばいい。
対価とは、金銭に限らない。
いいものが安く手に入る場所があるとして、しかしそこに行くためには様々なリスクが伴うとする。店舗までの距離が遠かったり、渋滞していたり、いつも帰りが午前様で買い物にいく時間が取れなかったり……そういったリスクを負ってなお、それを買いに行ったとすれば、あなたは相応の対価を支払っている。
お気に入りの洋服があって、しかしそれは手入れが面倒だとする。それでもちゃんと手入れをして着ているのであれば、あなたはその洋服の価値に対して相応の対価を支払っている。
いいものを安く手に入れる。
それは家計をやりくりする人間の、立派な才能だとは思う。
が、反面で高価な一品物を大切に扱う感覚はどこにいったのだろう?
そういう感覚は、現代社会にそぐわないものなのかもしれないが、そういう感覚を大切にしたいと思う。
それこそが、自分に価値をつけることに、なりはしないだろうか?