やっと本題。
シナリオとセッションの典型的な関係と、それによって硬化してしまった課題の復習、そして価値観の破壊による可能性について。
ページの内容
要約
今回のエントリを要約すると、以下の三点になります。
- シナリオの定型化は、セッションの条件から考えると当然の結論。
- セッションの制限から開放することで、ゲームを遊ぶコストを下げることが出来る。
- 従来の制限みんなぶち壊すことで、新しいシステムデザインの可能性が見えてくる。
シナリオの定型化とセッション
まずは「シナリオがどのように生成/整形されるか?」ということから考えてみましょう。具体的には「参加者が楽しかったと思えるシナリオを作るとき、どのようなことに注意するのか?」という話になります。
とりあえず「ゲームシステムが得意とする(=最も楽しさを演出できる)要素を入れ込む」ということが挙げられます。
せっかく得意なことがあるのに、それを使わないというのは勿体無い……まあ勿体無いだ何だという話は別にしても、「○○を遊ぶ」と言えば、その時点で参加者が期待するのは、そうした得意分野で遊ぶ/楽しむことでしょう。もちろんそれ以上に楽しませられる要素があるなら、そちらを使っても構わないわけですが。
そしてゲームデザインとシナリオデザインを合致させる上でも、「ゲーム的な盛り上がりと物語的な盛り上がりは同期または連結させる」ということが挙げられます。
これを別々にした場合、ゲームを楽しみたい参加者と物語を楽しみたい参加者との間で、テンションがバラバラになってしまう可能性があります。それはパーティゲームとして楽しむことの相乗効果が狙いにくくなってしまうことになるでしょう。
これにはもう一つ、非常に重要な理由があります。
それが「余韻を残す」という事です。
楽しかった余韻を残すために
「面白かった漫画が、長期連載化したらつまらなくなっていった」……という話があります。それに対して「早くやめるべきだった」とか「どこどこまでは面白かった」なんて意見をよく聞きます。
つまるところ、物語には終わらせるべきタイミングというのがある、ということでしょう。それが何処なのか? というのは、まあ個別の件に対しては人それぞれの意見があるでしょうし、それでいいと思いますが、共通するのは「面白かったところで終わってくれれば!」ということではないかと思います。
「せっかく面白かったのに、グダグダつまんない話を続けられたら興ざめ」とか「盛り上がってたのに、余計なエピソードが入ってテンション下がっちゃった」というわけです。
この「余韻を残す」という手法、えらい昔からあります。もっとも典型的なものが、詩歌と音楽です。
物語だの読み物だのの書き方、構成についての話によく出てくる「起承転結」は、その研究成果のひとつでしょう。物語を盛り上げていって、テンションが最高潮に達したら、後は終わらせるための話を簡潔に述べるにとどめて、パッと終わらせる。
音楽で言えば「序破急」というのもコレでしょう。西洋音楽の中でも、盛り上げるだけ盛り上げたら、急にバッサリ終わらせる、という手法はよく使われているそうです。
余韻を残すためには、「終わらせ方」や、もっと言えば「終わらせること」というのが重要になってくるわけです。
セッションの終わりと余韻の共有
さて、ここで考えなければならないのが、セッションというゲーム環境です。
まずはセッションという環境条件を羅列してみます。
- 限られた時間の中
- 複数の参加者が同じ場所に集まり
- 原則として全員が集まったところでゲームが開始され
- ゲームが終了するまで可能な限り全員が同席する
また、全員が楽しむためのシナリオデザイン、その方法として「余韻を残す」ための前提を考えたとき、以下の条件が追加されます。
- ゲームシステムが得意とする(=最も楽しさを演出できる)要素を入れ込む
- ゲーム的な盛り上がりと物語的な盛り上がりを同期または連結させる
この条件の定型化として「起承転結」や「序破急」といった構造があります。また、こうした構造を持った物語は、シーンごとの意味付け/印象づけ/盛り上がり/緊張感/切迫感などのコントロールにパターンがあります。
ここで注意すべきは、以下の 3点です。
- ゲームが終了するまで可能な限り全員が同席する
- ゲームシステムが得意とする(=最も楽しさを演出できる)要素を入れ込む
- ゲーム的な盛り上がりと物語的な盛り上がりを同期または連結させる
これによって、「余韻を残す」ための方法が定型化できます。
まあ要するに「クライマックスに全員参加の戦闘をする」ってことなんですが。
歴史ある『D&D』が、かつて迷宮探索のエキスパートだった「シーフ/盗賊」というクラスを、名前も新たに「ローグ/悪党」という身軽なファイタークラスへシフトしたと聞きますが、こうした変化も「全員参加による楽しみの演出」を重視した結果だろうと思います。
これは現在のゲームシステムと、セッションというゲームへのアクセス手段から考えると、ベストか、少なくともベターなシナリオデザインの選択であるだろうと思います。
ただ、逆に言えば、ゲームシステムや「ゲームへのアクセス手段」としてのセッションが変化すれば、当然また別のモアベターな遊び方であったり、シナリオデザインであったりが発生するはずです。
セッションという環境のコストダウンを図る
セッションという環境の設営が、非常に高コストであるということは前に書きました。
それは TRPG を始めたいと思っている未経験者の方々にとって、非常に大きなハードルになっています。そこで生まれたのが「オンラインセッション」です。
オンラインセッションとは、インターネットを介してテキストチャットや音声チャット(Skype等)、BBS などを使用して行うセッションのことです。前述の「セッション」は、オンラインセッションに対して「オフラインセッション」と呼ばれることもあります。まあ説明は不要のような気もしますが、一応。
で、このオンラインセッション、実はオフラインセッションより手軽に参加できるという強みがあります。その理由は、「物理的に同じ場所に集合する必要がない」ということです。天・地・人の例えで言えば、地――空間――に必要となるコストが恐ろしく低くなります。そのため、オフラインセッションが出来る環境を失ってしまった場合も、オンラインセッションによって TRPG を遊び続ける、ということは可能です。(そこから再びオフラインセッションの環境にアクセスできるようになるかもしれません)
このへんの話題については、
こちらが参考になるかと思います。
枠組みの破壊によるコストダウン
当然の話ですが、コストが高ければそれだけ参入するためのハードルが高いということです。
TRPG のイニシャルコスト(初期投資)は、個人単位では精々が「ルールブックを買って読む」とか「使用するダイスと筆記用具を揃える」くらいのことですが、実際にプレイしようとすると、「一緒に遊ぶ仲間を見つける」とか「遊べる時間を作る」といった、セッションで求められるコストが非常に高くなっています。
そうした「ハイコストなゲーム」であることは、結果として非常にハイパフォーマンスなゲームを楽しめることにも繋がりますし、必ずしも悪い話ではありません。ありませんが、そのために遊ぶ機会を逃してしまう、というのも勿体ない話です。
セッションの形態を一旦解体/再構築することで、セッションのハイコストな部分のコストダウンを図ることも可能ではなかろうかと考えます。
たとえば「一度に終わらせる」という枠組みの破壊
たとえば「セッション開始から終了まで極力全員が参加する」ことを破壊して、「途中参加も途中退場も可」といった形にすると、シナリオ全体を「起承転結」にまとめることの価値の一部が失われます。
これはある意味では損失ですが、逆に「起承転結」という枠組みについての知識の要求や、シナリオ全体を眺めてキャラクターとシナリオのすり合わせを行うことが求められる環境、またシナリオの定型化によるマンネリ化から開放される……ということでもあります。
全員が協調“しなければならない”というのは、ある種のストレス環境でもあります。これはプラスに機能することもあればマイナスに機能することもある。初心者が的はずれなアクションを起こしたとき、「シナリオを十全に楽しむため」という題目で、自称ベテランプレイヤーがいちいち口をはさみ、それによって初心者が萎縮してしまう……ということは十分にあり得る話です。
環境の破壊は、そうした建前の破壊としても機能し、それによって「NO」と言えなかった社会ストレスを破壊することも可能である……と考えます。
異なる楽しみを生み出す可能性
確かに従来のセッションの延長線上にある遊び方で、セッションの枠組みを破壊したら、そこで得られるはずだった楽しみも破壊されてしまうでしょう。
しかしオフラインセッションからオンラインセッションへ新しい環境、新しい遊び方が開発されてきた経緯から考えても、TRPG の遊び方そのものっていうのは、わりと幅広くいろんな方法があるんじゃないかと。
たとえば「BBS セッション」とか「掲示板セッション」と言われるオンラインセッションの一形態は、従来の即興性の高い TRPG セッションからは乖離した、リレー小説的な遊びであったり、PBM(プレイ・バイ・メール)的な楽しみ方の可能性を秘めています。それ以外のアプローチもあるかもしれません。
同じように、プレイ環境を変えることで失われるものもあるでしょうが、それに変わる新しい遊び方、新しい楽しみなど得られるものがあるのではないか? という気もしています。
たとえば神話的キャンペーン
あくまで一例として、ですが。
今ちょっと考えているのが「複数のゲームマスターによって運営されるひとつのキャンペーンゲーム」という話。同人システム『RuneWars』の「クーポン」の発想を応用して、プレイ結果を数量評価へと変換し、複数のゲームマスターがこれを運用することで、マルチバース(汎宇宙)的なキャンペーンゲームが遊べるんじゃないか? とか。
「神話的」としているのは、過去の事象が常に絶対のものとして共有される必要がないこと。ゲームマスターをコミュニティと見做して、あるコミュニティでは起こったと信じられている出来事が、また別のコミュニティでは起こらなかったか知られていないという矛盾があっても、それぞれの矛盾を飲み込んでしまえるだけの大雑把な遊びになるだろうと想像されるためです。
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