[Essay] RPG創作構造掌論

【筆者註】
  1. 本エントリ内で「ロールプレイングゲーム」または「RPG」と書かれているものは、アナログゲームとしての「テーブルトーク・ロールプレイングゲーム」や「TRPG」を指しています。デジタルゲームのRPGについては特に考慮していません。
  2. 本エントリは先師の講義ノートに着想を得たものであり、内容や構成については完全な独創ではありません。

 『箱庭世界Kit』の開発理念が何か足りないと思って、当時の自分が何を考えてたのかノートを漁ってたら、こんなものが出てきました。確かこれ、一度は Web 上にアップしたんですけど、ボロクソに言われて 2週間くらいで撤去したヤツですよ。
 うん、道理で忘れてるわけだ(笑)

 本ブログのスタンスからすると、あまりこうしたテキストを出すべきではないとも思うのですが、まあ小難しいメタメタの話は今月でひとまず休止して、来月からは『箱庭世界Kit』の開発と、より直接的なテクニックに関する話に戻ろうと思ってるので、ひとつの総決算として。

ロールプレイングゲーム創作構造掌論

 カメさんことH先生へ。

はじめに

 ロールプレイングゲーム(以降“RPG”)とは、かつてボードゲームの一形態であるミニチュアウォーシミュレーションゲームより生まれ、『Dangeons&Dragons』の登場によってボードゲームのボードゲームたる所以、すなわちゲームボード(ゲーム盤)というコンポーネントを必要としない、独立したアナログゲームとしての歩みを始めた。
 RPGがゲーム盤という強力かつ有為なコンポーネント――視覚情報媒体――の制限から解き放たれた理由を、私はRPGが〔自然言語〕という極めて汎用性の高い表現技術を駆使し、〔自然言語〕による創作表現活動の一手法を確立したことが大きいだろうと考える。
 私はこれよりRPGとは何者であるのか、RPGにおいて〔自然言語〕がどのようにゲーム盤をはじめとするボードゲームのコンポーネントの代用として機能するのか、またそれによってRPGがいかなる構造で創作表現を行っているのかについて、記述を試みようと思う。

RPGとは

 そもそもRPGとは何であるのか。まずはその基本的な認識について語ってみることにする。

  1. RPGとは人間の行う諸々の文化的活動の一種である。ここで言う文化的活動とは、〔文化の背景世界〕を読み取ることと、それを表現することの二つに分解される。
  2. 〔文化の背景世界〕は、語られる――表現される――ことによって立ち現れ、認識されるという性質を持つ。語られることによって〔文化の背景世界〕は生まれ、そこから存在が開始されるとも言えるだろう。
  3. 人間の表現技術を、目的に応じて体系的にまとめたものを〔言語〕と呼ぶ。この〔言語〕は単なる「音声または文字による情報伝達技術」に限らず、より広義に「五感で知覚される様々な情報を〔記号〕化し、〔体系〕づけたもの」として理解する。
  4. こうした〔言語〕は文化そのものに属し、それぞれが独自の〔言語〕を持っていると言うことも出来る。また〔言語〕を使うこと、すなわち〔言語の活動〕は、自覚、無自覚に関わらず〔文化の背景世界〕の存在を開始させることである。そしてRPGは独自の〔言語〕を有している。
  5. 以上より、RPGは独自の〔言語〕を持った一個の文化であり、またRPGは〔言語の活動〕によって存在を開始するものであると言うことが可能である。

 RPGは文化であり〔言語の活動〕である。以上は大前提であり、多くのRPGを知る人々にとっては何も語っていないに等しかろう。では次に、RPGを知る人々にとってのRPGの認識について語ってみることにする。

RPGを知る人々にとってのRPGとは

 これについてはRPG(ロールプレイングゲーム)の名にあるとおり、ゲームの一種であることは間違いないように思われる。しかしてRPGは、従来のゲームのくびきを超えた、ある種の創造的な活動といった様相を帯びることがある。それらを包括するためには、RPGについて四つのレベルに切り分けて語る必要があると考える。

  1. RPGとは個人が主観的な〔娯楽体験〕を得るための手段である
  2. RPGとは二つの〔言語〕によって構築される環境である
  3. RPGは意見の対立を解決するための機能を備えている
  4. RPGとは〔言語〕による収束と拡散を繰り返す創造的な活動である
1. RPGとは個人が主観的な〔娯楽体験〕を得るための手段である

 多くの場面でRPGについて「まず〔娯楽〕である」とする発言を見ることが出来る。
 この文脈で用いられる〔娯楽〕という語は、実際的には「楽しいと認識する状況または結果」程度にしか意味づけられておらず、またその「楽しい」という認識は常に個人の主観にのみ立脚する性質を持っている。
 通俗的に使われる「趣味」と呼ばれるものがそうであるように、RPGもまた個人が主観的な〔娯楽体験〕を得るための手段であると断じていいだろう。

2. RPGとは二つの〔言語〕によって構築される環境である

 RPGは〔言語〕によって、従来なら視覚情報として絶対的であったコンポーネントを代用する。RPGを運用する者は、日常的に使用される〔自然言語――日常的に使用される表意言語〕と、よりシステマティックな〔RPG独自の言語〕という二つの〔言語〕によって、視覚情報として多くの意味を含んだコンポーネントを代用している。
 このとき用いられる二つの〔言語〕は自然言語学的な記号として存在し、二つが絡み合うことで文脈を収束する〔体系〕として機能し、環境を形成する。

3. RPGは意見の対立を解決するための機能を備えている

 RPGは、異なる二つ以上の意見の対立が生じたとき、どちらの意見を採用するか? といった状況を解決するための手段を備えている。これは同時に異なる二つ以上の意見が生まれることを容認する性質があることも意味している。

4. RPGとは〔言語〕による収束と拡散を繰り返す創造的な活動である

 RPGは、まず〔自然言語〕の運用によって、複数のRPGの運用者たちの間に個別の〔RPGの背景世界〕を構築する。これは詩文によく似ている。そうして複数の運用者がそれぞれに構築した〔RPGの背景世界〕を〔RPG独自の言語〕によって整形、抽象化することで〔RPGの背景世界〕を収束し、これを再度〔自然言語〕に変換することで個別の〔状況認識〕へと拡散させる。
 RPGとはこのように、〔自然言語〕と〔RPG独自の言語〕による〔言語の活動〕を行い、それによって収束と拡散を繰り返すことで、常に新たな〔RPGの背景世界〕を形成し続ける創造的な活動である。

 こうしたRPGの四つのレベルは、しかし二つの〔言語〕――〔自然言語〕と〔RPG独自の言語〕――によって関係し、完全には分離できないものとなっている。次はRPGという文化独特の〔RPG独自の言語〕について言及することにしよう。

RPGの〔言語〕

 私は〔RPG独自の言語〕について、大きく三つの属性に分けられると考える。それが

  1. 〔場の装置〕
  2. 〔副言語〕
  3. 〔道具〕

 である。

1. 〔場の装置〕

 〔RPG独自の言語〕は、まずRPGの基本的な運用作法が〔体系〕として構築されている。一般に「RPGである」とされる様々なゲームパッケージに共通する点は、この運用作法だけであり、それぞれのゲームパッケージはそれを土台とした様々なルール、またルールの運用に必要となる様々なデータから構成される。
 これらが適切に運用されている間、〔RPG独自の言語〕はRPGのプレイに必要な場を構築する〔場の装置〕として機能する。

2. 〔副言語〕

 〔RPG独自の言語〕は、それによって構築されたプレイ環境下において、環境の参加者同士がコミュニケーションを取る上での〔副言語〕になる。これは通常、〔自然言語〕をRPG用に拡張・加工する目的で使用され、数学の方程式のようにそれを理解する者の間でのみメタ言語のように機能する。

3. 〔道具〕

 〔RPG独自の言語〕は、それを運用することが必ず何らかの目的達成のために機能する。またRPGのプレイを目的達成のための活動をみなしたとき、〔RPG独自言語〕は必ずRPGの運用者に駆使される従属的な〔道具〕としての性質を持つ。

 以上のとおり、〔RPG独自の言語〕は〔場の装置〕として機能し、またRPGの運用者にとっての〔道具〕でもあるが、それは〔自然言語〕の〔副言語〕でしかないとも言う。
 次はこうした〔RPG独自の言語〕を支え、ボードゲームのコンポーネント全ての代用として機能する〔自然言語〕とは何者であるのかについて考えてみよう。

〔自然言語〕

 〔自然言語〕とは何者であるか。
 一言で言えば、それは我々が最も良く知る「日本語」とか「英語」とか言ったものであり、〔言語〕としてはごく狭義なものになる。実のところ、こうした〔自然言語〕の定義として、共通するところは「節に切り分けることで有意な情報を読み取れる連続する音声および文字の体系」くらいしかない。
 ここで重要なことは「節に切り分ける――分節する」「有意な情報を読み取れる」という部分である。

 人は未知の言葉を耳にしたとき、その意味を理解することは出来ない。また未知の文字を目にしたとき、その意味を理解することも出来ない。これはつまり〔自然言語〕が「知覚する者の認識に依存する」ということであり、〔自然言語〕そのものに意味があるのではなく「読み取られた時点で意味が発生する」という言語の性質を表す、ごく身近な例であると言える。

〔自然言語〕の三機能

 〔自然言語〕には大きく、指示、思考、伝達の三つの機能があると言う。

  1. 指示:ある事象を指し示す。またそのための記号を創出する。
  2. 思考:創出された数々の記号を加工・編集して論理を構築する。
  3. 伝達:記号を加工・編集し、他者へ情報を伝達する媒体に変換する。

 〔自然言語〕は確かにそうした機能を持っており、その〔体系〕の中で運用されている限り、この機能は過不足なく発揮されている。

〔自然言語〕の創造性

 ところで〔自然言語〕は、ただ生活における実務的な目的にのみ運用されるのかと言えば、そうでもないことは誰でも知るところだろう。日々の何気ない雑談が、全て具体的な目的行動である人間は、そうはいない。そうした〔自然言語〕の非実務的活動について、詩文という〔娯楽〕について考えてみることにする。

 詩文とは何かと言えば、実に様々な答えが返ってくるであろう。私はこれを「〔共時的な世界〕を受容する者それぞれに生産する〔自然言語〕を用いた表現の一種」と考えている。

 〔共時的な世界〕とは物理的な時間単位に依存せず、そこにある事象がすべて同時に存在する世界のことである。
 どれほど壮大な叙事詩、あるいは歴史小説であれ、それを受容する人々にとって描かれる世界は常に自身の内部で生産され構築され、その世界は物理的時間に縛られず、時間経過を進めたり戻したりが自在に、かつ瞬時に行えるという性質を持っている。
 こうした〔共時的な世界〕を、読む人や聞く人それぞれに生み出させる。そうした性質の〔自然言語の活動〕が詩文であると、私は考えている。

 そもそも詩文に読まれる世界は、詩文の中に恒常的に存在し続けるものではない。語られ、読まれる都度、それを受容する人々の中に新たに生産されるという性質を持っている。そしてまた、詩文を構成する詩句は、それぞれが関係し合って相互に補完し、その意味、その世界の解像度を高めるよう機能する。
 だが、いかに詩句によって詩文の世界の解像度が高められても、複数の人間がまったく同じ世界を共有することは不可能である。それは詩文によって構築された世界が、それを受容する人々それぞれの認識によってのみ生産される、ある種の幻想、虚構といった性質のものであるためだ。それがいかに事実を伝えたものだとしても、生み出される世界は現実ではない。

 詩文に関わらず〔自然言語〕によるコミュニケーションは、発信者と受信者、また受信者一人一人においても〔言語〕に含まれる記号をそれぞれの認識によって脳裏に再構築させるため、細部に至るまで完全に一致する世界を構築することは出来ないといった性質を持っている。

〔対話〕的性質

 RPGは〔RPG独自の言語〕と〔自然言語〕によって、ボードゲームのあらゆるコンポーネントを排除しうる、新たな性質を獲得した。だが前述のとおり、〔自然言語〕によるコミュニケーションは、複数の人間がいれば複数の世界を生み出してしまうといった性質がある。ボードゲームのように視覚情報としてのコンポーネントによって状況を絶対的なものとして共有することは出来ない。
 それでも〔自然言語〕によってボードゲームのコンポーネントの代用とするのであれば、必ず生じる状況認識の差異を修正するため〔対話〕的な手段が必要となる。

〔対話〕による認識の接近

 〔対話〕とは互いに異なる価値基準に立脚する者同士が、その価値観と、それに基いた認識の違いについて理解するための手段である。相互理解を深めた後の行動については別次元の話であり、〔対話〕はただ相互理解を深めることを目的とした手段であり活動であると言える。
 RPGは〔自然言語〕によってお互いの状況を認識するため、大なり小なり認識の差異を生じさせてしまうが、そのために〔RPG独自の言語〕を用い、その〔体系〕の中での差異を埋め合わせることで、お互いの認識の差異が問題にならないよう〔対話〕を行う。
 また必要に応じて複数の認識のうちから、どれか一つだけを正しいものとしなければならない場合もあるが、そうした際にも〔RPG独自の言語〕を正しく運用することで、自然に〔対話〕が行われるようになっている。
 この意味で〔RPG独自の言語〕は〔対話〕を行うために〔自然言語〕の〔副言語〕として機能するのである。

創作活動としてのRPG

 最後にRPGの持つ創造性についての考えを簡単にまとめ、本論はひとまず終わることにする。

二つの〔言語〕による背景世界の造形

 RPGは〔自然言語〕と〔RPG独自の言語〕という二つの〔言語〕の持つ性質により、自然と創作活動としての性質を帯びる。
 〔自然言語〕によって運用者それぞれが認識する〔RPGの背景世界〕の言わば〔原風景〕は、〔RPG独自の言語〕に沿った〔対話〕によって加工・再編集され、より整えられた姿へと造形される。造形された〔RPGの背景世界〕は再び運用者それぞれの手に戻され、また個々の認識によって時間的空間的視野を伸張されて次なる〔原風景〕となる。
 RPGは、こうした造形と伸張を繰り返すことで〔RPGの背景世界〕を創造し続ける構造を持っている。

 また〔RPGの背景世界〕は、詩文と同じく〔共時的な世界〕という性質、そして幻想、虚構といった性質を持っている。それは語られ読まれる度に生み出され、どれほど現実世界に接近していたとしても、また現実世界の出来事として語られても、そこに記述される事象は同時に存在する〔共時的な世界〕である。

終わらない詩文

 RPGを詩文と見なしたとき、それは「未だ語られざる詩文」といった性質のものであると考えられる。
 RPGでは複数の運用者がひとつの〔RPGの背景世界〕を構築し、またその〔RPGの背景世界〕は二つの〔言語〕によって間断なく続きが書かれていくため、これは「未だ語られざる詩文」、あるいは「常に創造され続ける詩文」であると言える。

最後に

 RPGは〔自然言語〕を駆使することにより、ボードゲームのコンポーネント――つまりは視覚情報表現――という制限から解き放たれ、誰もがいつでも参加できる広がりを獲得したはずであった。だが明示的なコンポーネントを暗示的な〔RPG独自の言語〕に切り替えたことで、文化としての深みを得ると同時に、誰もがいつでも参加できる広がりを失ってしまい、却って閉鎖的にすらなってしまった感がある。
 この閉塞感に対して私は、RPGに関わる人々は、RPGを知らない人々に向けて〔RPG独自の言語〕を可能な限り〔自然言語〕に変換していく作業が必要になるのではないかと思う。

 〔自然言語〕が認識の差異を生じさせてしまう点については、既に書いたとおりである。これに対してRPGでは〔RPG独自の言語〕を用いて対応しているが、〔自然言語〕による表現活動の量を増やすことで、受信者に内在するパターンを見出させる方法の方がより一般的であり、それは即ち現実的であることの証左と言えるだろう。
 これを行うには、一人でも多くのRPGについて語る人間、語る言葉が増える必要があり、そのための〔言語〕および環境の整備が急務となる。