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前回は『脳トレ』の【娯楽の核】を「問題を解くこと」と仮定して、【娯楽の核子】のゲーム化プロセス「操作」+〈意思決定〉、「反応」+“特別な価値”が成立することについて書いてみました。
でもまあ「問題を解くこと」だけだと蓋然性がちょっと低いわけです。
今回はそれを補強する要素について、書いてみようかと思います。
また遠回りをするので趣旨を先に書いておくと、これは「試験も最初は楽しかったんじゃない?」と「つまらなくなったのは押し付けられるからだ」、そして「押し付けを取り除いた試験はソリティアと酷似してるよ」という話です。
多くの人が試験を嫌うのは…
「問題をとくこと」が〈ゲーム〉化の要件を満たすなら、学校の勉強も〈ゲーム〉になりうるのでは? なんて書きましたが、象徴的なものが「試験(テスト)」です。
全問正解を目指して問題を解く。
【娯楽の核子】に分解するなら「操作 ⇒ 問題を解く/満点を得るため」と「反応 ⇒ 正解が分かる/正解すると点数がもらえる」ってなトコでしょうか。
試験が楽しくなくなる理由
でもまあ学校の試験ってのは、「楽しい」と感じる人よりそうでない人の方が圧倒的に多いですよね。
それはなんでかと言ったら「一方的に押し付けられる」ことや「他人と比較される」こと、それから点数が悪かったときの「周囲のイヤな反応」や「大きすぎるリスク」など、さまざまな要件が積み重なって「楽しい」と感じられないような環境が出来上がってしまっているからでしょう。
これらは後天的な刷り込みですが、それが出来上がってしまう理由は、ひとつにはストレス過剰というものが考えられます。
得られるカタルシスに対して、それ以前のストレスが大きすぎる。
課題(ストレス)と結果(カタルシス)のバランスが悪いわけです。
また別の理由としては、義務教育の期間中、繰り返し何度も同じような相対評価を与えられ続けることによって、何度やっても同じ「反応 ⇒ 上位者には敵わない」しか得られないという錯覚に陥ります。
「操作」に対して同じ「反応」しか得られないと、次第に飽きていってしまう。
前述の「電灯のスイッチを ON/OFF する楽しみ」と同じ構造です。
楽しさが、麻痺してしまうわけです。
試験が楽しい人の理由
さて、多数派の意見が有れば、当然ながら少数派の意見というものもあります。
いきなりなネタですが、『ソウルイーター』というアニメの作中、優等生のマカ=アルバーンが試験について「結果は点数で分かるし、ゲームみたいなもんよ」なんて主旨のコメントしています。いかにも優等生らしいセリフで、「そりゃ出来るヤツの話だろ」ってなモンですが、そういう見方もあるわけです。
優等生であっても「操作」に対する「反応」が同じだ、という構造は変わりません。
それなのに、これだけ印象が違うということは、両者の間に違いがあるはずです。
で、なにが違うのかといえば、得られる実際の「反応」ですね。
高得点を取れば、まあ大抵は褒められます。相対評価として、多くの同じ試験を受けた人たちを上回ったという優越感もあります。こうなると「一方的に押し付けられる」ものというより、「自分の実力を他人に見せ付けるチャンス」と捉える向きまで現れます。
試験は本来、楽しいもの?
多数派の「試験なんてつまらない」という意見と、少数派の「ゲームみたいなもの」という意見。
前者がネガティブな「試験は嫌なもの」という刷り込みによる状態であるとするなら、後者は「試験は嫌なもの」という刷り込みを受けていない状態である、とも考えられます。
そうであるなら試験は本来「楽しいもの」なのかもしれません。
試験抗体を作らない方法
試験について、人は後天的に「つまらないもの」という刷り込みを与えられているのではないか?
そう考えたとき、試験を「楽しいもの」のままにする方法も、おのずと見えてきます。
原因療法的に「試験は嫌なもの」という刷り込みの原因を取り除いてしまえばいいわけです。
「試験は嫌なもの」という刷り込みの原因は、色々考えられますが、その中から取り除きやすそうなものとして、今回は「一方的に実施される」ことと「他者と比較される」ことの二点に注目してみたいと思います。
原因は「拒否権」の不在
ここ、重要。
これら二つの問題点は「主導権が他者にある」という点で共通しています。
自分がやりたくてやっているわけではないんですね。
かといって主導権が他者にあることが、すべて悪いワケではありません。
たとえば疲れているとき、相手の善意でマッサージされるのは(まあ相手によりけりですが)嬉しいモンです。
ただ、そういう相手の善意に対しては普通、拒否できるわけで。
二日酔いで頭が痛くてソファに寝そべってるときに「大丈夫? 水飲む? 薬は飲んだ? ちゃんとベッドで寝たほうが良いんじゃない?」などとあれこれ心配されたとして、それが善意と分かってはいても「ゴメン静かにしてて」と拒絶するでしょう。手を振って追い払うとか、無視するとか、細かな違いはあるにしても。
これで拒否できない、止めてくれと言っても止めないようだと、途端にイヤなことに変わってしまいます。
拒否できない。
押し付けられる。
そういうことが、ある事象をイヤな事へと変えてしまいます。
そう考えると、「一方的に実施される」とか「他者と比較される」というのは、ともに「拒否権がない」という点で共通している、とも言えるでしょう。
これを先ほどの二つの問題点に適用してみると……
- 一方的に、学校の都合で定期試験を実施される。
- 頼みもしないのに試験結果を他人と比較される。
そういうコトが、学校の試験を嫌なものへと変えてしまうのではないか?
そんな風に考えてみました。
「拒否権」の復活とソリティア(一人遊び)の性質
拒否権の不在によって「楽しいこと」が「嫌なこと」に変わってしまうのであれば、そうした拒否権を復活させることを考えてみましょう。
- 試験は生徒一人一人が希望するときに行う。
- 試験結果は生徒が希望したときのみ他人に伝わり、比較材料となる。
やりたくない試験を受ける必要はなく、自信のある試験だけ受ければいい。
しかも試験の採点は他人の手を介さず、たとえば機械を使って行い、その結果は自分だけが知っている。自慢したければ他人に見せればいいし、隠したければ捨てちゃって構わない。
どうでしょう?
こんな試験なら少なくとも、従来の拒否できない試験よりは嫌われないと思いますが。*1[拒否できない試験よりは嫌われない試験案] = もちろん学校教育の中では定期試験を行うことが決められていますし、それを止めろと言っているわけではありません。能力を向上させるためにある程度のストレスをかけることは必要だとも考えています。これはあくまで〈ゲーム〉に関する話です。
ところでこの構造、何かに似ていると思いませんか?
「試験」を「〈ゲーム〉」に、「生徒」を「プレイヤー」に置き換えてみてください。
- 〈ゲーム〉はプレイヤー一人一人が希望するときに行う。
- 〈ゲーム〉結果はプレイヤーが希望したときのみ他人に伝わり、比較材料となる。
ソリティア(一人遊び)の性質そっくりだと思いません?
以上から、「学校の勉強の試験」と「ソリティア」は、拒否権の有無を除いた構造的には大きな違いがないと考えられます。
これを利用した「拒否権のある試験」または「学校の勉強のソリティア」が、つまりシリアスゲームではないかと思います。
そして同じように、その内容が試験的である『脳トレ』が「楽しめるか?」という問題についても、以上でもって「楽しめる。少なくともその要素はある」との証明に代えたいと思います。
References
↩1 | [拒否できない試験よりは嫌われない試験案] = もちろん学校教育の中では定期試験を行うことが決められていますし、それを止めろと言っているわけではありません。能力を向上させるためにある程度のストレスをかけることは必要だとも考えています。これはあくまで〈ゲーム〉に関する話です。 |
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「一方的に実施される」
「他者と比較される」
さて、この二点に共通することはなんでしょう?
答)
「~される」