[chat] 20090804#4-演出家のいない演劇

演出家のいない演劇
玄兎
「シナリオデザインの技術論って、基本的には構造論なんだよね。ああ、オリハタがいればロシア・フォルマリズムとか聞けるのに」
クジ
「プロップですか」
玄兎
「ですよ。なんで建築家の方が作家より物語論に通じてるんだかなあ」
クジ
「でもあれって構造的な話だけですよね」
玄兎
「まあ、そうかな。ただシナリオを作るだけなら、加工の技術だけでも十分だと思うんだけど、それで足りないと感じるってことは。まあ、贅沢になって来たってことだろうなあ」
クジ
「贅沢病ですか」
玄兎
「まあね。それって表現者として芽生えてきたってことなんだけど。普通にセッションを取り回せるようになったら、次はもっと自己主張したくなる。自然の流れだと思うよ。役者出身の演出家みたいなもんだよね」
クジ
「ゲームマスターは演出家ですか」
玄兎
「うん。まあ実はそこに陥穽があるんだわ。TRPGの表現技法と演出家とは、表現の技術史的に見てズレがあると思う」
クジ
「表現の歴史ですか?」
玄兎
「芸術表現ね。てのはさ、演出家がいつ生まれたか、役者が担っていた役割はどう変遷していったか、って話なんだけど。大雑把に話していい?」
クジ
「お願いします」
玄兎
「ありがとう。じゃあ話させてもらいます。えーとね、まずどうしようか。TRPGだと古代ギリシャあたりからかな」
クジ
「そんなに遡るんですか?」
玄兎
「語りの技術について考えると、そこまで遡っちゃうと思う。もっと遡ることも出来るんだけど、まあそこまで遡ると今度は語りの本質とか、面倒なところに踏み込んでいかなくちゃいけなくなるんで今回はパスね」
クジ
「了解です」
玄兎
「うん。で、まあ古い古い、紀元前5世紀とかもっと昔とかの演劇、舞台上での戯曲の表現についてなんだけど。これ、ぶっちゃけ吟遊詩人だった」
クジ
「はい?」
玄兎
「1人語りだったんだらしいんだな、古代の演劇って」
クジ
「それ、演劇って言えるんですか?」
玄兎
「今の定義だと無理かなあ。ただまあ演劇をね、多くの観衆に向けて物語を表現する技術、として広義に捉えるなら、やっぱり演劇ってことにならんかな? とにかく当時の人にとって戯曲、物語、まあ神話とか歴史とかいったものをこう、エピックとして観賞する方法は、そういう1人語りが当たり前だったらしい」
クジ
「TRPGとはかけ離れてますよね」
玄兎
「まあ吟遊詩人マスターなんかは、このレベルの技術なんだろうけどね。で、そこでコンテストが生まれた」
クジ
「コンテストですか」
玄兎
「うん。このコンテストの名前が、アゴーンっていうらしい。カイヨワの遊びの分類、アゴンとアレアのうちのアゴンと同じ言葉ね。砲撃の掛け声じゃなくて。で、この辺からまたちょっと面白い展開も考えられなくもないんだけど、まあそれは脱線だから置いといて。このアゴーンから、面白い表現技法が生まれた」
クジ
「ていうと?」
玄兎
「対話形式。まあ実はこれについても段階的な進化が行われてて、まず最初に俳優1人と合唱隊、これはコロスって呼ばれてたんだけど、その2役で行われた。コロスっていうのは俳優が表現しきれないこと、勇敢さの裏にある恐怖とか、そういう隠されたものを語ることで、どうやって観賞すればいいかをガイドしていく役割ね。バレエのオーケストラなんかと近い感じ」
クジ
「小説の、地の文を読んでるってことですか?」
玄兎
「そうそう、正にそれ。で、そこにギリシャ悲劇の三大詩人の1人、アイスキュロスが俳優は2人までいけるでござるの術を発明する」
クジ
「なんで忍法ちっくなんですか」
玄兎
「なんか分身の術みたいじゃん。1人が2人になりましたって」
クジ
「すみません。たまに玄兎さんのセンスが分からない」
玄兎
「うん、まあいいんだ。とにかくそれで、やっと対話が発生するわけ。対話にすると、お互いの感情表現に一貫性を持たせやすくなるから、コロスの仕事はちょっと減る。ちなみにこの人が『アガメムノーン』を書いた人」
クジ
「敬いたまえとアーメンホテップ」
玄兎
「よく覚えてるなあ」
クジ
「バブリーズは私のモケケピロピロですから」
玄兎
「どこのラーダ神官だ。んで、その後にソポクレースとエウリピデスが出てくる。アイスキュロスとこの2人を合わせて、ギリシャ三大詩人とか言ったりするんだけど、まあとにかく、彼らによって対話劇の基本形式が出来上がった。らしい」
クジ
「対話しない演劇って、想像しにくいですよね」
玄兎
「まあ現代に至るまで、演劇ってどんどん変化してきてるからねえ。たとえばアイスキュロスはまだ、コロスを演者の相方として使った部分があるみたいだけど、ソポクレースはコロスを解説者としてのポジションに置くようになったり、とか。さほど離れてなかったはずなんだけどね、この2人の間にある時間って」
クジ
「革新的な時代だったんですかね」
玄兎
「だったんだろうね。なんにせよ、競い合うことで新しいものが生まれてきたわけ。まだその頃は、俳優が3人くらいで、仮面を使って1人で何役も演じてたらしいんだけど」
クジ
「ふむふむ」
玄兎
「それからぐっと時代が下って、シェイクスピア。今現在の物語評価の中だと、まあ歴史的な劇作家の偉人ってとシェイクスピアになるわけだけど、実はシェイクスピアの戯曲にしても、今と昔だと随分と違ってる」
クジ
「まさか内容が変わってるとか?」
玄兎
「んにゃ、そうじゃなくて。演出家がいなかったんだよ、昔」
クジ
「あ、そこにつながるんですか」
玄兎
「そう。古代ギリシャのアゴーンで培われた演劇と俳優だけど、2千年経っても演技は俳優まかせだった」
クジ
「むずかしい時代ですね」
玄兎
「うん、難しかったと思うよ。劇作家として表現したいものがあっても、俳優個々人がそれを汲み取れないと、てんでバラバラの舞台になっちゃうし」
クジ
「もしかして」
玄兎
「うん?」
クジ
「違うかもしれませんけど。もしかして、TRPGってその段階だってことですか」
玄兎
「ああ、通った。うん、そう。歴史から見た表現技術としては、TRPGの表現ってその段階だと思う」
クジ
「コロス? がゲームマスターですよね」
玄兎
「そうそう。前に口承文芸としてのTRPGって話題があって、多分その辺で対比を書けるんじゃないかなあ、とか思ってるんだけど。まあそれはいいとして、今のハンドアウトを使って配役を強く管理するスタイルが、現代的な演出家のいなかった頃の演劇にかなり近くなってる、と思うんだわ。もちろん脚本の有無って点とか、全然違うって言われりゃそうなんだけど。で、類似性が強くなったお陰で、余計に演劇表現との類似性が際立って、技術的な古くささが目立つようになっちゃった気がする。古くささというか、未成熟さかな」
クジ
「キツいですね」
玄兎
「キツいってか、言いがかりだなあとは自分でも思うんだけど。ただ同じルートで、同じポイントを目指す場合の問題点だから、別のポイントを目指すなら別の解釈になるし、技術史的には進歩と考えていいと思う。この辺まあ好みが出てるんで、アンフェアです」
クジ
「ハンドアウト嫌いは変わりませんか」
玄兎
「もっと気楽に遊ばせて欲しいんだよ」
プレイヤーの上達、型による表現
玄兎
「僕はTRPGは物語を生み出すツールだとは思ってるけど、必ずしも物語を完成させるツールではないと思ってるから。スタンスの違いだよね。商業レベルでも、なんかものすごい欺瞞があると思うし」
クジ
「欺瞞ですか?」
玄兎
「商業リプレイが。リプレイってさ、まあ議事録形式で書かれてるし、大局的には行われたゲームの内容を記述したものなんだけど、結局のところあれだって編集されてるわけで。活字の世界で編集っていうと、まあ演劇の舞台で言ったら演出ってことでさ。それって演出家を通してフィルタリングされたものなわけ。生ログじゃないんだから、そりゃ物語としての完成度は高くなるよねっていう」
クジ
「編集にかければ、演技が下手でも上手く見せちゃったりしますよね」
玄兎
「切り貼りして、上手い部分だけ抽出するとかね、方法はいくらでもある。だからまあ、活字の物語と同じ土俵で、同じレベルのものをTRPGのセッションから作りたいと考えるなら、編集技術についても考えないとどうしようもないと思うわけ。そうでなくて、それをしないで近似値まで引き上げようとするなら、プレイヤーの技術を徹底的に叩き上げていくしかない」
クジ
「ゲームマスターが表現しようとしてることを、プレイヤーが読み取って演じられるようにならなきゃいけないってことですよね。なんか嫌な感じですけど」
玄兎
「そういう意味では、たとえば古典芸能とされる能とか狂言とか歌舞伎とかで型を重視するってのも、演出家不在のまま表現者たちが配役の記号化を行っていって、その中で最善とされた型を残していったとか、そんなこともあるんだろうと思う。この辺は囲碁とか将棋とかの定石と同じでさ」
クジ
「TRPGも演出家がいないから、型の表現を磨くしかない?」
玄兎
「しかない、かどうかは分からないけど、シナリオテンプレートとかフェイズとかの型を限定して、キャラクターの立場も、やるべき事も限定して、更にはメタなオヤクソクまで引っ張ってきて。それだけ窮屈にされたらもう、型の精度を上げるくらいしか今のところ思いつかない。ゲームマスターだけ頑張っても、プレイヤーが上達しないと駄目でしょ。その場でシナリオデザイナーが用意してきた物語を記述するには」
クジ
「だからゲームマスターもプレイヤーも関係なく、ゲーム以外のシナリオの書き方も勉強した方がいいって言ってたんですか?」
玄兎
「だから?」
クジ
「ですから、目指してる完成度の高い物語を表現するのに、それを表現する型を知らないといけないとか、そういう話かと思ったんですけど。違いました?」
玄兎
「ああ、そうか。そう言えば良かったんだ。うん、そう、それだ」
クジ
「どうも」
玄兎
「さすがに疲れてきたかな。いやまあ疲れてなくても話まとめるの下手だけど。まあさ、表現者になりたかったらGMやって、リプレイ書けって話で。セッションだけじゃ絶対満足できなくなるって」
クジ
「是非、そのままでいてください」
玄兎
「つまり一生ゲームマスターをやってろと」
クジ
「ところで歌舞伎も演出家っていないんですか?」
玄兎
「流された」
クジ
「なんかプロデューサーとか演出家とか肩書き持ってる人を、前にテレビで見たことがある気がするんですけど」
玄兎
「ああ、うん。技術指導と演出家との線引きとか難しい話があって、この辺つっこむと生兵法がバレるんだけど。バレエとかもそうなんだけど、型が表現することの意味とか、そこんとこの読み方が分かってないと物語として見られないところって有るでしょう。逆に型がわかれば表現もわかる。そうすると技術指導も細かい話ではあるんだけど、演出として十分に機能するから。そういや話変わるけど、ギリシャ語のオペラを見るときに、あれ確かモーセの『十戒』だったけか、最初に物語の筋を全部説明しちゃって、じゃあ始めますっていうぶっちゃけた舞台が有ったなあ」
クジ
「そんなのアリですか」
玄兎
「オペラッタ、まあ歌劇だけど、歌と劇を別々に鑑賞してもらおうってことなら、アリなんじゃないかな。そのときはギリシャ語の歌とか、客層も英語圏の人ばっかりだし、歌の細かい意味なんかより、物語のうねりの観賞としては十分にアリだったと思う。観衆が知識で補完するわけだけど、意外と面白かったよ。オペラとか全然興味なかったうちの兄貴も感動してたし。サイレントともちょっと近い感じだった」
クジ
「表現したいものによってやり方を選んだり、やり方によって表現するものを選ぶってことですよね」
玄兎
「そうそう。TRPGだって表現媒体として見るなら、その辺考えないと始まらないと思う」
クジ
「演出家不在の演劇が、演出家のいる演劇と競うのは、違いますか?」
玄兎
「違うっていうか、演者の負担が大きくなるでしょ。あの、まあたとえばシェイクスピアでも世阿弥でもいいんだけど、自分の書いた戯曲をさ、演者がメチャクチャに演じたらやっぱり腹が立つと思うわけ。そうじゃねえよっつって。そうするとまあ、役者にあれこれ口出ししたくなるから」
クジ
「TRPGでそれやられたら最悪ですよね」
玄兎
「だと思う。なんかそんな吟遊詩人GMもいるらしいけど。そこで世阿弥は『風姿花伝』を書いた。師匠の語りとして自分が考える芸道のあり方、どう捉えてどう歩むべきかを語って、それと謡曲との合わせ技で、自分の表現したかったものを表現してもらうための道筋を作った、て側面もあったんじゃないかと思う。まあ『風姿花伝』は技術書じゃなくて理論書だから、何度も読み返して芸道の深みに下りていきながら、世阿弥の世界観と謡曲とのすり合わせは自分でやれって話なんだけど」
クジ
「世阿弥を理解して、初めてどう演技すればいいかが分かるようになる、わけですか」
玄兎
「技術論としては『風姿花伝』より『八帖花伝書』の方が有用で、まあそっちで技術を学びながら謡曲で探ってたんだろうけど。まあでもどっちにしても、俺を理解してくれ、俺のやりたいことをやってくれってのは、作家のワガママだから。そこを無視すれば読者は自由に楽しんでいいと思うんだけどね。そこから新しいものが生まれたら、それはそれで嬉しいと思うし」
クジ
「TRPGは作家のワガママを再現する楽しみじゃないですよね」
玄兎
「僕もそう思う」

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