[column] シナリオとセッション#1

 今回は「TwitterでTRPGとか#2」に、紙魚砂さんからいただいたコメントに端を発しています。
 そっちの話は簡潔にまとめると「常に開かれっぱなしのセッション会場としての Twitter」ということで、僕はこの視点には大いに賛成です。

 ただ、何で賛成なのかについては「何故それが求められるのか?」という点について焦点をあわせないと、そもそもの提案が無効化されてしまいそうなんですよね。これまでに開発されてきた TRPG の遊び方のメソッドを否定してまで、新しい遊び方について研究する意義はどこにあるのか? とか、その辺について言及せにゃならんようなので。
 ですのでこの話については Twitter からは脱線して、まずその前提となるシナリオとセッションの関係についてまとめてみたいと思います。
 仕事に復帰したばっかりで更新ペースも相当落ちるとは思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

要約

 今回のエントリを要約すると、「シナリオライターは自分が書きたいもの(=テーマ)を表現するために、邪魔なものをガンガン切り捨てていくよ」という、まあだいたいそんな話です。
 めんどくさかったらこれだけ覚えておいてくれれば、たぶん大丈夫。たぶん(笑)

シナリオライターというエゴイスト(笑)

 シナリオというか情報ってもの自体が、そもそもエゴ(=自我)によって主観的に切り揃えられた代物なんだし、その集合としてのシナリオを書くシナリオライターがエゴイストだなんてのは、なんだか「当たり前」だとは思うんですが(笑)

 ある事象があったとき、そのものをどう把握し、どう理解するかっていうのは人それぞれです。テレビのニュースなんか見てても、「ほんとはこいつが先に何かやってたんじゃないの?」みたいに言う人もいて、理由を聞いてみれば「なんか悪いことやってそうな顔してる」と言う。情報を主観的に捉えて、不足した情報を想像力(妄想力?)によって補填し、ひとつのストーリーを創り上げるのは人間のイド(=本能)なのかもしれません。

テーマは取捨選択の判断基準として機能する

 表現の世界でも、まあこれは西洋文学よりの思想になるようですが、自分が描きたいもの、伝えたいことを表現するために、(具体的な例を提示する)シナリオを記述する、という手法が有ります。
 ここで言う「自分が描きたいもの」や「伝えたいこと」は、俗に「テーマ」と呼びます。

■余談:TRPGのゲームシステムと標準的なシナリオ

 [ゲームシナリオ]も、自然とこうした手法に則ることが多くなります。
 多くのゲームシステムが闘争/戦闘というゲームを内包し、そうしたゲームを遊ぶために「ある意志を持った勢力が二つ以上存在するとき、どの勢力に肩入れをするのか? あるいは独立勢力として他の勢力に何かしらの働きかけを行ったり、出し抜いたりするのか?」といった構造の[ゲームシナリオ]が作りやすいよう、デザインされています。

 そしてプレイヤーたち(または PC)がどの勢力に所属しようとするのか? それを判断/選択するために、それぞれの勢力がオピニオン(=意見/主張)を語り、それによって自動的/間接的にドラマが発生します。あるいは語られないまま終わりを迎えるドラマというものもあります。すれ違い(=[対話]の失敗)による悲劇などがそれです。

 シナリオライターがあるテーマについて描こうとしたとき、それは「必要なもの」と「不要なもの」を判定する基準として機能します。
 たとえば「チョココロネの食べ方について議論するシーン」というシーンが必要であるかどうか。シナリオライターが「緊迫感のある戦争の悲劇」を描こうとしたとき、メリハリを付けるため、その対比としての日常としてなら必要とするかもしれません。しかし今まさに丁々発止の外交戦が行われているテーブル上で、あるいは機械のように冷徹な指揮官を描くシーンでそれをやらかしたら、その物語は必要とする真剣味を一瞬で失ってしまいます。シナリオライターはそうしたシーンを不要なものとして切り捨てるでしょう。本当は会議の緊張をほぐすためにそうした議論を持ち出してしまうような、間の抜けた(人間的な)指揮官であったかもしれないのに。

 自分が描きたいもののために、事実や可能性について切り捨てる。
 これがシナリオライター、及び彼によって描かれたシナリオのエゴです。*1[シナリオライターのエゴ] = 関連エントリ:「ゲームシナリオ“執筆”心得っぽい何か」・「シナリオの指向性の話」など

■余談:再編集される物語

 既に描き終わっている物語について、今度はユーザ側が、自分が読みたいようにその物語を切り貼りします。

 よくあるのが、ある登場人物の行動について、その行動原理や理念を別のシーンのある行動から理解する、というものです。
 登場人物に感情移入したとき、その人の道義的に褒められない行動について擁護しようとするときにも、同じような読み方をして、物語を主観的に再構成します。ミステリなんかだと読者が犯人を仮定したとき、あるいは登場人物であるところの名探偵が、その動機や犯行、隠蔽工作などを読み取ろうとするときに使用します。

 ひとつの物語にも複数の視点が有り、複数の読み方が可能です。
 そのうちのどの視点、どの読み方でその物語を受け入れるのかについては、読者一人一人が勝手に決定します。これがシナリオを再編集するユーザのエゴになります。また、それが他者に語られることによって、彼によって再編集されたシナリオのエゴ、と言うことも出来るでしょう。

 情報を量的に増やしたり、情報の関係性を複雑にするほど、物語はエンドユーザによって勝手に編集され、伝えたいことはどんどん伝わりにくくなっていくもんです。

シナリオとは与える情報を取捨選択したもの

 そんな具合にシナリオは、常にテーマに沿って取捨選択を行いながら記述されます。
 TRPG の場合、ゲームシナリオの取捨選択の基準となるテーマは、たとえば「ゲームの面白さ」であったり「システムの習熟」であったり「感動的な物語」であったり、さまざまです。しかしどんな基準であれ、その基準から外れる要件は、シナリオライターによって切り捨てられることになります。

 そしてシナリオには、そうした取捨選択の基準がもうひとつあります。映像分野では「尺」なんて言ったりもしますが、いわゆる「時間」です。これが次回の話、[セッション]に関係します。

References

References
1 [シナリオライターのエゴ] = 関連エントリ:「ゲームシナリオ“執筆”心得っぽい何か」・「シナリオの指向性の話」など

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