[memo] 〈エモ〉い遊びとしてのTRPG史

[用語定義]

  • 〈エモ〉 : ある個人の強烈な価値観を理解し共感できること

(T)RPG と〈エモ〉さの記述

僕は常日頃より「ゲーム史について様々な視座から語られたら面白いのになー」と口を開けて待ち構えているダメ人間なわけですが。

こと (T)RPG におけるゲーム運営論についても色んな史観があって良いと思ってて、たとえば「感動体験を求めた歴史」として見るとき、今で言う〈エモ〉いというのは面白い軸なんじゃないかと。

ウォーゲーム起源論による (T)RPG の初期設計

〈エモ〉いって何なのか? というのは冒頭の用語定義を見てもらうとして、元々 (T)RPG って〈エモ〉い楽しみを追求した遊びなんじゃないか。と思ったりしてるのです。まあこれは RPG – ウォーゲーム起源論に準拠するならなんですけども。

ウォーゲームでは最適解の選択が求められます。その中には敢えてコマを捨てる、という選択もありうる。しかし実際にウォーゲームを遊んでいると、盤面を読み間違えて、本来なら捨てゴマにされるはずのユニットを無駄に守っちゃったりするわけです。

で、こうしたとき、プレイヤーには二つの選択があります。一つは単純に失着とみなすこと。もう一つは理由(言い訳)を探すことです。後者を選択したプレイヤーは、映画や小説からドラマチックな物語を探しました。なぜ救援に向かってしまったのか? なぜ任地を死守せず撤退したのか?

……これが (T)RPG の始まりなんじゃないかと。

つまりウォーゲームでは不可解とされる非合理的選択を、個人の物語に切り替えることで肯定しようとし、更にはそこに新たな楽しみを見出したものが (T)RPG なのでは? という史観です。そうしてみると (T)RPG って最初から〈エモ〉い遊びとして想定されていたんじゃないかという。

ゲーム運営からみた〈エモ〉さ追求の歴史

昔は〈エモ〉い要素ってどこから抽出していたんだろうかと考えると、ほぼ無かったんですね。強いて言うなら「死」にまつわる物語が〈エモ〉い遊びだったと考えられます。前述のウォーゲームにおける非合理的選択のように、戦闘ゲーム中のさまざまな行動と、それに付随する背景から〈エモ〉さを抽出していました。

この時点ではほとんどウォーゲームと同じ遊び方をしていたわけです。

それに昔のゲームはとにかく良く死んだ。死にやすかったんですね。んでまあその死に際してアレコレ語る余地を設ける、というのが〈エモ〉い遊びだったかなと。

ここから〈エモ〉さを追求し、より〈エモ〉い物語を、ということで「映画/漫画/小説のような遊び」へとシフトしていきます。まあ基本的には既存の物語の格好良いものを真似て遊んでたし、黎明期からコナン・ザ・グレートやエルリックごっこをやっていた人は多かったんで、むべなるかなって話では有るんですが。

この流れがあって、この頃から (T)RPG を「みんなで一つの物語を作る遊び」と定義する声が強くなったような気がします。これ以前の時代には「コマンドたたかう以外ができる遊び」とか、そんな表現も結構優勢だった気がするんですが。

ただし実際に「みんなで一つの物語を作る」と言っても方法は分かりません。みんなで模索していました。その中でたとえば『ダンジョンシネマティーク』のように物語論を展開してみたり、『バトルテックRPGリプレイ』でガンダムその他の既存の作品をゲームシナリオにする提案があったり、あるいは「RPGマガジン」でファンタジー世界の定番や作法を様々な方法で提示してみたり。『クロちゃんのRPG千夜一夜』や富士見ドラゴンブックのコレクションシリーズなんかもそうですね。(新紀元社のシリーズには大変お世話になったものです)

この頃は「ユーザ一人ひとりが勉強する」ことを前提に運営技法が組まれていました。たとえば「盗賊ギルドで情報を買う作法」のように。そうしたアクション一つ一つと既存の作品のシーンを結びつけて〈エモ〉い物語を作ろうとしていた。

でもまあ勉強した人としてない人の差が大きくなって、マウンティングが発生したり、あと剣と魔法以外のジャンルも増えたことで畑違いの作法がごっちゃになったり、まあ色んなトラブルが起きたわけです。

元々が自由を標榜する若者文化だったので、権威化によるピラミッド方式も使えない。これは常にニューカマーを必要としていた弱小カルチャーとしては頭の痛い問題でした。

これに対する解として、たとえば「事前の勉強に関係なくゲーム内で最適解を選ばせ続ければ一つの物語になるのでは?」という挑戦がありました。あるいは「むしろ PC を暴走させて PL にフォローさせれば〈エモ〉い物語になるのでは?」といったものも。これらの先鋭的な挑戦は、なかなか受け入れられなかったんですが。

んでまあ多少の迷走期を経て「ストーリーを固定しちゃえばいいじゃん」とコペルニクス的転回を果たします。以前は「個々人の自発的な行動の中に〈エモ〉い物語を見出そう」としていたのですが、それだと「一つの物語」にするのが難しかったんですね。

だから「最初から(エモ)い物語を用意して、その中で PC にそれっぽいことさせればまとまるじゃん」という、まあ個人的にはゴリゴリの力技だと思うんですが。それを「満足感」という大義名分で推し進めて、この運営論は主流派となりました。

で、最近までわりとこの運営論が鉄板としてメインストリームであり続けたんですが、これって協力ゲーム(参加者が協力して一つの目的を達成するゲーム形式)の文法なんですね。なので PvP などの競争ゲーム(参加者同士が異なる目的をもって競い合うゲーム形式)にはトコトン不向きなわけです。

そこで再びストーリーに依存しない形の〈エモ〉い物語の追求が始まりました。

PvP を許容する上でゲームのフェアネスを堅持するため資源管理を重視したシステムが増え、「死」にまつわる〈エモ〉い物語の抽出が再燃しているのは、個人的にちょっと面白いなと思ってみています。

……というあたりが現在の状況なのかなーとか。