[note] なんで哲学は面倒なのさ

 あさー!!
 さみー!!

 今日でペンさんちのシルベニアとはお別れなのです。
 これから車で何時間もかけて移動します。飛行機で行った方が楽か? とも思ったんだけど、今日は時間があるのと、カミさんが昔ホームステイで世話になった人のお宅が、ちょうど道沿いにあるんでご挨拶してこようかー……とか思ったので。
 まあ、それはともかくとして。

 例によってウダウダやりあってました。
 特に今日はもう移動だってんで、一昨日、昨日とロクに眠らせてもらえなかったり。
 お陰で日記も書けず、今日ももう睡眠は移動時間に摂ればいいやと開き直ってこんなの書いたりしてますが。

 前に書いたキーワード見てもらっても想像できるかもだけど、話がかなり広がっちゃってて、まとめるのが大変なんで、まとめやすそうなところだけメモっていきます。
 今日は “Philosophy” まわりを。

哲学とか文脈とか考えることとか

 ”Philosophy―哲学” と言うと、どうしても「難しいもの」というイメージがあって、でも哲学っていうのは「万人があるタイミングで必要とするもの」だといい、万人がそれを必要とするものなのに「難しく言うことに価値がある」という、なんだかよくわからない特性を持ってる……という。

 前に「哲学ってのは悩みのドツボから日常に帰るための魔法の呪文*1[魔法の呪文] = 「魔法」と「呪文」は同じじゃないよ。」なんて話を書いたんだけど、そこで何で、敢えて「難しく言う」必要があるのかって言うと。
 「難しく言われた言葉」っていうのは「複数の “Context―文脈” に支えられた言葉」であって、また「多彩な “Plane―面/相” を持った “Volume―立体” 的な言葉」でもあって。でも文脈か相のどちらか、あるいは両方が失われたり、隠されたりしていて、パッと見には意味/価値/主張などを浮き彫りにすることが出来ない。

 だから難しい。

 でも、その「難しく言われたこと」を、欠けた文脈を仮定しながら考えたり、文脈から浮き上がる相について考えたりしながら、自分が見失っていたこと/分からなかったことを、ひとつひとつはっきりさせていく。
 安定したものにしていく。
 そうすることで、悩みの種を摘みとっていって、その悩みが無かった状態に復帰する。
 「哲学を使う」というのは、そういうことなんだろうさ、という話。

 だから「哲学は数学の、定理と証明の関係なんかと同じだ」なんて人もいるし、なんだか難しかったけど、数式で哲学を語ることもできるらしい。
 面白いのは、数学にせよ哲学にせよ、先にまず定理が見つかって、それから発見された定理を証明するのにウンウン唸るってところ。関係ない/興味ない人にとっては「別に証明できなくても、そうなるっていうならそれでいいじゃん」くらいにしか相手にされない。
 発見された定理は、せいぜい自分が使いやすいように使い回すし、使えないならほっぽり出しておく。でもそれじゃ納得いかん人がいて、そういう人はもうこれでもかっていうくらい悩みまくって、納得出来るようになるか、面倒くさくなって無視するかの二択になる。

 ちなみに、学校の勉強で、たとえば英語とか数学とかで落ちこぼれちゃうタイプの人は、悩みまくって理解できなくて投げ出しちゃったってケースが多い。

「訳が分からんものは使いたくないんだよ!」

 ……と、実際に落ちこぼれた人間を代表して言ってみたら、首肯されたり肩叩かれたりした。
 お前らもか(笑)

まとめっぽく

 ところで。
 数学だったら数式の意味はひとつだから、特に悩まんでもいいんだけど、哲学ってのは自然言語をふんだんに使ってその証明を行おうとする。でもその自然言語ってのはブレがあって、同じ言葉でも文脈によってニュアンスが全然違っちゃったりするわけで。
 つまりというかなんというか、もちろん定理は大事なんだけど、その定理に到るまでの文脈っていうのも同じくらい大事なんだよ、と。

 そんでもって、普段から考えるなんてのは面倒だ/無意味だと思うだろうけど、もし悩むことがあったら、そんときは深く考えるチャンスだから、思う存分悩んで考えて、自分なりの答えを模索してみるのが良いですよ。同じ悩みにはまりそうになったとき、復帰までにかかる時間をかなり短縮出来るようになるし。

 ……とかまあ、そういう話。
 敢えて浅い〔運用〕レベルの話で留まってるのは、やっぱりこう、先鋭化したアカデミズムって価値付けが難しいから。法哲学みたいなのはまだ、社会シミュレーションの延長線上で価値付けは理解できるんだけども。

References

References
1 [魔法の呪文] = 「魔法」と「呪文」は同じじゃないよ。