やっと本題に……は、まだ届かない(汗)
前からどっかで書きたいなぁと思ってたのが、ネタ的にも丁度いいかとか思ったんで、やや脱線気味ですが書いてしまおうかと思います。かなり単純化してるし、茶の湯についてはそもそもが耳学問なもんで、いつも以上に暴論になっちゃってるかもですが。
セッション/会/集まりを貴重なものとする文化のひとつ、茶の湯とセッションの類似性……とか、そんな話。
ページの内容
要約
今回のエントリを要約すると、以下のニ点になります。
- セッションは貴重であるが故に、一期一会の完成度が求められる
- TRPG のシナリオデザインは、「テーマ」と「セッション環境」という二つの制限を持つ
茶の湯にも似たTRPGのセッション
さて、前回「TRPG のセッションは高コスト」と書きました。そのコストとは天・地・人、すなわち時間、空間、人間にかかるコストのことであり、これらを整備することで TRPG のセッションは初めて実施できます。
こうした高コストのゲームですから、ごく自然な話として、セッションにもそれなりの価値、リターンが求められるようになります。何ら見返りのない遊びに、高いコストを支払って参加してくれと誘うことは出来ません。TRPG のセッションの見返りは、たとえば「楽しさ」や「達成感」、あるいは「一体感」といった心理的なものとされます。
こうした「集まりの場」や「饗しの心」については昔から様々な文化で語られてきました。今回は茶道(茶の湯)文化に沿って考えてみたいと思います。
茶会の精神
茶道の作法やなんかは知らなくても、その精神を表した「一期一会」という言葉は、聞いたことがあるかと思います。
ちなみに「一期」とは「一生」、「一会」は「一度の(茶)会」のこと。「一期一会の精神」とは「その(茶)会を一生に一度のことと心得て、誠心誠意もてなすべし」って感じでしょうか。*1[一期一会] = ちなみにこの語の成立の大本は、『山上宗二記』の茶湯者覚悟十躰より「一期に一度の会」が元らしい(ちなみに語としての「一期一会」を造ったのは井伊直弼とも)。『へうげもの』では宗二が斬首に処される直接の原因となった「茶の湯秘伝書」が、たぶん『山上宗二記』。
「一期一会」――まあ人生に一度っていうからには、気合も入ろうってもんでして。
今日この日この時を逃したら、もう二度とこの人と会うことはない。そのとき相手を第一に「精一杯楽しんでもらおう」と考えても良し。自分を第一に「この出会いを良いものだったと思われたい」と考えても良し。どちらにせよ、その出会いを可能な限り最高のものにしようと饗応しよう、という方向に向かいます。ここで「力を尽くさない」ことを選ぶのは、結果として自分の価値を貶めていることに過ぎなかったりしますが、まあそれはいいとして。
茶会を主催する亭主は常にこうした心構えで茶会に臨むべきだと説きます。そしてそのために求められるのが「創意工夫」であり、また「一座建立」だといいます。
「創意工夫」とは茶会の趣向を言外に伝えるため、客を楽しませるために「しつらい」*2[しつらい] = 「室礼」と書く。趣向に合わせて部屋、調度、花、軸など、空間のインテリアを整えること。 や「ふるまい」*3[ふるまい] = 趣向に合わせて装束、所作などを整えること。 に心を配ること。
「一座建立」とは元は能の言葉で、簡単に言えば「舞手と客とが心を通わせて一体感を覚える場」といったところでしょうか。茶会での「一座建立」は、舞手ではなく亭主ということになりますが。
茶会とは「一期一会」と心得、そのために「創意工夫」を凝らし、「一座建立」を楽しむもの。
大雑把に過ぎるかもしれませんが、茶道の精神を大枠で語ろうとすると、そんなところになるんじゃないかと。*4[茶会とは~] = 現代の形式ばった茶道のイメージとは、なかなか結びつきにくいかもしれませんが。
■TRPGセッションも「一期一会」
これを TRPG のセッションに置き換えて、
- 「一期一会」=セッションの貴重さ。またセッションに対する心がけ
- 「創意工夫」=セッション環境のデザイン、シナリオデザイン
- 「一座建立」=「みんなが満足感を得られるセッション」という目標
なんて形にすると分かりやすいかなー、とか。
まあでも TRPG ではそこまで強烈な精神論は、時に邪魔になることもあります。あくまで娯楽/遊びとして捉えたとき、そこまで真摯に取り組まなければならない、と言われたら鬱陶しく思う人もいるでしょう。学校で放課後、ちょこちょこ遊んでるような学生さんに、「TRPG というのはなァ!」とか説いたって煩いオッサンでしかないわけで(笑)
しかしたとえばコンベンションのように、本当に「一期一会」となる可能性がある環境、というものはあります。また、コンベンションほどでは無かったとしても、社会人になって年に数えるほどしか遊ばないプレイグループというのも、いくらでもあります。そうしたプレイグループのセッションは、次にいつ集まれるかも分からなかったりして、永遠に「次」が来ないままに立ち消えてしまうこともあります。(しつこいようですが、TRPG のセッションを開くコストは決して安いものではないのです)
であるからこそ、セッションを楽しめるだけの「創意工夫」を凝らし、参加者みんなで楽しい思い出を作る「一座建立」を目指そう……という「一期一会」の心得は、変わらないだろうと思います。
「一座建立」の真行草
「一期一会」という限られた機会/時間の中で「一座建立」を果たそうとすると、(「一座建立」の程度や方向性にもよるんですが)「創意工夫」の種類はどうしても限られてきます。それは「一座建立」に必要な事柄に関係します。
「一座建立」――主客が心を通わせて一体感を味わうためには、「亭主のもてなしを客が理解し応える」こと、「客の応えを亭主が受けて理解し、創意工夫の精度を高める」こと。大雑把にこのへんの流れが必要になります。言葉のキャッチボールによって少しずつお互いを理解する、そのプロセスと同じです。
このとき、その精度を高める足場になるものがコンセンサス/共通認識です。
ある話題について、その前提となる情報のコンセンサスが取れているなら、人はすぐに本題について語ることが出来ます。しかし前提についてのコンセンサスが取れていないとき、まずそのすり合わせを行ってから、あるいは行いながら、徐々に本題へと話を進めていく必要があります。*5[徐々に本題へと話を進めていく] = 今、まさにやっていることなんだけど。
このコンセンサス、予めお互いにこれを深めておく準備期間があれば問題有りません。*6[コンセンサスを深める準備期間] = 茶道の修行、作法を学ぶ、ということは、一面にそうした意味を持っていると思う。
しかし限られた時間内でそれをしなければならないとき、相手がどういった認識を持っているかも分からないとき……つまりコンセンサスを取っていないとき、話者は可能なかぎり話の無駄をそぎ落とし、本題への最短ルートを辿ることを目指すでしょう。プレゼンテーションのテクニックです。
真行草って?
小題にある「真行草」とは、元は書道のタイプ(書体)を表すものです。
書聖・王羲之が確立したと言われる楷書(真)・行書(行)・草書(草)の三書体のことですが、
- 真=高い格式の整ったもの
- 行=真と草の中間にあるもの
- 草=破格(格式を破った)もの
……といった様式/格式の分類や修行の段階として、書以外の文化にも当てはめられるようになったそうです。
■「一座建立」の真
こうした無駄を削ぎ落し、なるべく短時間でコンセンサスを取るための方法として、定型化があります。
コンセンサスをとるべき情報の形を一定の定型化することで、スピーディに情報を整理し、理解することを補助するというものです。情報を分類/整理し、ある枠組みに流し込む。亭主と客がお互いにその枠組の読み方だけを理解していれば、コンセンサスを取りまとめる速度は格段にあがります。
そしてコンセンサスを手早く取りまとめることで、「亭主の趣向(用意された主題)を掘り下げ、深みを楽しむ」といった「一座建立」を目指すわけです。
定型化には「コンセンサスを手早く取りまとめ、本題についてじっくり語り合う」という機能があります。しかし定型について最低限の知識が必要であることや、定型の枠組みに流しこむとき、その枠からはみ出すものが取り扱えない窮屈さなどのマイナス要素もあります。
■「一座建立」の行
それから、主題をいきなり提示しつつ、残りは不文律や暗黙知によってコンセンサスのブレに対応する、という方法もあります。客には不文律に対応できるだけの教養が求められることになりますが、完全な定型化を行わないことで「窮屈さ」は軽減されることになります。
コンセンサスを手早くまとめる手段をとらないものの、そこには不文律による趣向/主題が確かにあります。そのため「一座建立」の形は「亭主の趣向(用意された主題)を浮き彫りにしながら楽しむ」といったことになるでしょうか。
定型化を用いず、不文律によって本題への取り組みをコントロールするのは、亭主にも客にも相応のコストを要求します。定型化された会に比べれば客の負担が大きくなりますが、それだけ客の自由度も高くなるため、「窮屈なのは嫌だけど会や文化、主題そのものは興味がある」といった客層への対応力が向上します。
■「一座建立」の草
最後に、枠組みにはめ込むことの窮屈さを嫌って、コンセンサスを事前に取りまとめることを投げ出してしまう、という方法もあります。この場合、趣向/主題を予定通りに取り扱うのが難しくなってしまいます。ですから「一座建立」の目指すところからも趣向/主題が抜け落ちて、ただ「互いにその場にあること/ものを楽しむ」ということになるでしょう。
定型化を投げ捨てることで、その弊害であった「窮屈さ」を完全に排除することが出来ます。しかしその分、参加者それぞれが自分から楽しむための努力を費やす必要があります。一人一人が自ら「しつらい」や「ふるまい」に面白みを見出したり、互いが互いに「創意工夫」を凝らして全員が「一座建立」を成らせるために努めなければならないわけです。
茶会とシナリオ
茶会には亭主のもてなしの趣向があって、客はそれを楽しむ。客の楽しみを亭主の楽しみとしてハレの場を作り、「一座建立」の境地に至る。
この構造、TRPG のゲームマスターとプレイヤーに置き換えても、何ら違和感がなかろうと思います。もてなしとシナリオがニアリーイコールになるだろうなと。茶会の流れなんかは、そのまま「茶会のシナリオ」って書けそうだし。
で、ここでやっと「シナリオとセッション#1」の話に戻るんですが。
シナリオってのはテーマ/主題によって取捨選択が行われます。それを行う人のエゴによって、シナリオはデザインされる。そしてそのシナリオを十全に活かすための場として、セッションが整えられる。これは茶会でも同じことです。亭主の趣向によって、もてなしの時と場所、そして客が決まる。
しかしそれは逆に、制限として捉えることも出来ます。つまり時と場所、そして客に合わせて趣向、もてなしを決める。茶会という限られた環境の中、精一杯の「創意工夫」をする。
これを TRPG に置き換えれば、以下のようになります。
「時間や空間、そして参加者に合わせてシナリオをデザインする」
シナリオをデザインする際は、シナリオの主題の他に、セッション環境もまた制限として機能するわけです。
この話はもうちょっと続きます。
次回は「セッションの制限に沿ってデザインされるシナリオの形」について書いてみたいと思います……脱線しなければ(汗)
References
↩1 | [一期一会] = ちなみにこの語の成立の大本は、『山上宗二記』の茶湯者覚悟十躰より「一期に一度の会」が元らしい(ちなみに語としての「一期一会」を造ったのは井伊直弼とも)。『へうげもの』では宗二が斬首に処される直接の原因となった「茶の湯秘伝書」が、たぶん『山上宗二記』。 |
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↩2 | [しつらい] = 「室礼」と書く。趣向に合わせて部屋、調度、花、軸など、空間のインテリアを整えること。 |
↩3 | [ふるまい] = 趣向に合わせて装束、所作などを整えること。 |
↩4 | [茶会とは~] = 現代の形式ばった茶道のイメージとは、なかなか結びつきにくいかもしれませんが。 |
↩5 | [徐々に本題へと話を進めていく] = 今、まさにやっていることなんだけど。 |
↩6 | [コンセンサスを深める準備期間] = 茶道の修行、作法を学ぶ、ということは、一面にそうした意味を持っていると思う。 |
■TRPGと茶道についての言及
TRPGと茶の湯については、以前にヤネウラさんのところで何度か言及されたことがありました。まあ茶の湯というか、『へうげもの』の利休のエピソードが端初のようですが、短いながらどれも興味深いエントリになっています。