[diary] ベジタリアンだった日

 昨日の話。
 誕生日を祝えと呼びつけるのって、どうなんだろう。
 君ももう成人して社会人になったでしょーに(笑)

 日中、漫然とホンの山に埋もれながら、あーでもないこーでもないと言い合う。
 この時間をとることが誕生日プレゼントになって以来、何年になるか。
 この日だけはベジタリアンになる。豆ばっか食ってる印象(笑)

 昔、教えたアプローチが通用しなくなってきていると文句を言われる。
 そりゃあそうだ。成人までに使えなくなると言ったことは忘れていたらしい(笑)
 まあでも予想より五年も長持ちしたってことは、いい環境に恵まれてきたんだろう。
 やや過保護だったんだろうなー、と言ったらむくれられた。ばーか(笑)

 感受性の高さと、表現力の高さは必ずしも一致しない。
 言語化による理解は、弱い精神を守るための技術、補助輪に過ぎない。
 最終的には取り外す必要がある。そうすることで新鮮な刺激を生み出せるようになる。

 遂にその時期が来た、というだけの話。
 独立しなさいと言われてるんだろう。
 今までの経験を使って模索すればいい。
 三年もあれば見つかるでしょ。

 作劇は役者の中から生まれるものもあれば、俯瞰で組んでいくものもある。
 人を表現する芝居もあれば、役を表現する芝居も、物語を表現する芝居もある。

 ナラティブ・アプローチの話を思い出し、アランを思い出す。
 人が主観的に理解する物語というものが、どのように生み出されるのか。
 想像力とは必ずしも良いもの、正しいものとは限らない。

 人は凄まじい速度で忘れる生き物だし、都合よく物語を紡げる生き物である。
 役者が、表現者が打ち込める因子は複数ある。
 表現者が追求する創作とは、万人に全く同じ物語を体験させるものだけではない。

 ……なんて話をしながら、都合、11本の構造解析をやらされた。
 ひっじょーに疲れましたったったあいたった。