毎度のコトながら思いつきで書いてます。なんかゴメンナサイ(何)
「失敗」に関するアレコレを拝見していて思ったのは、「失敗恐怖症」の発症原因を追究する上ではゴールデンルールより「事故」という言葉の方が問題になるんじゃないか? とかそんなコトでした。
ページの内容
「失敗」とゴールデンルール
曖昧だった判定基準
一般語として多用される“失敗”ってのは線引きがあやふやで、評価基準が明らかなものでないと、客観的な判定が出来ないものだったりします。*1[客観的な判定が出来ない] = スポーツでも良く見る問題だが、これらはルールによって判定者(審判・審査員など)を絶対化することで回避している。それでも腑に落ちない、納得できないケースもあるが、スポーツでは客観的評価、判定が全てとされ、その点においてTRPGとは異なる。
ところが TRPG の評価基準はかなり当初から曖昧です。昔から「みんなが楽しんだら成功」とか「楽しめなければ失敗」といったガイドラインはありましたが、それ自体はあまりに主観的過ぎて、厳密な判定をするための基準としては使い物になりません。
マナーの明文化 ~ ゴールデンルール
また、たとえば「楽しめなければ失敗」というガイドラインに対して、アレやめろコレやるなといった“マナー”レベルの話としては、昔から随分と語られていた……と思います。あくまで個人主観の話ですが。
で、そうしたマナーやモラルに委ねられていたこと、ケース・バイ・ケースで対応しなさいとされていたことについて、「それじゃわかんねーよ」と文句ぶーたれる人たちに、「だいたいこんな感じなんだよ」と明文化してみたのがゴールデンルール、なんじゃないかと思うわけで。
ゴールデンルールの間隙 ~ 失敗恐怖症
明文化されることで認識が強化され、なんとなくやってみたけど上手く回らなかったから“失敗”だったという認識から、明文化されたガイドラインから外れてしまうことが「失敗」だよ、という認識へと変化していった……ということは有りうると思います。人間、分かりやすい方へ流れていくモンですし(笑)
そしてその結果、「失敗恐怖症」がより発症しやすい環境になってしまった、ということは有るかもしれません。
昔から「失敗するのはもう嫌だからゲームマスターやりたくない」って人もいたわけで、“失敗”を恐れる心そのものは有ったわけです。ただ、判定基準があやふやだった頃は、自分の“失敗”を特に認識しないままゲームマスター続けていけた分、直感で色々とやってみるトライ&エラー型のゲームマスターは育ちやすい環境だったでしょう。
ただしこうした放任主義的なアプローチは、勉強とか研究とかいった事も本人任せになります。そのため技量は完全に属人的なモノになっちゃうわけですが(笑)
逆に“失敗”が明文化によって「失敗」として定義されたり、反語的に浮き彫りにされたりすることで自覚したり、あるいは他人――たとえば心無いプレイヤーに――論われることで、「失敗が怖いからゲームマスターやりたくない」って人が増えてしまった、というケースも考えられます。
代わりに「失敗が怖いから勉強します」ということで、勤勉にマスタリング技術の習熟を研究するマニュアル型のユーザが増える……ということもあるかもしれません。
商業の視点を加えてみる
この辺は一長一短で、様々な要件が絡んでいるように思います。
たとえば商業的な視点を加えてみると、前者、トライ&エラー型のゲームマスターというのは「自分で作るから関連商品を買わない」って人が少なからずいるようです。*2[自分で作るから買わない] = 発言者がアレなので信憑性はいまいちだが「もの作り系サイトはもうからない」という意見もある。そうするとまあ、ベンダーとしては商売が成り立たなくなりますんで、困りますね。シナリオ集とか、ソースブックとか、買ってもらえないとサポートも出来なくなってしまう。
ところが後者、たとえばマニュアル型のゲームマスターは実用品として、そうした関連商品を買ってくれる率は高いんじゃないかと思われます。この辺、ちゃんとマーケティング・リサーチしてみないと分からんことだし、その手の資料は手元にないんで単なる想像の域を出ませんが。
初心者向けのアプローチとして
また、まったくの初心者に対しては、そうした関連商品に「これを使えばトラブルの発生率をかなり減らしてくれますよ」という付加価値をつけることで、安心材料として。
まあ最初に脅かしておいてから買わせるって考えると、なんとも悪どい手法(笑)のようにも思えますが、トラブルが発生しやすいケースに意識が向かうので、そこでビビりさえしなければ、むしろ予防的にマスタリングできる分、成功体験を得やすいんじゃないか? とも。
そうして何度も市販シナリオで経験値を積んでおいてから、じゃあオリジナルでやってみようか、という流れになれば、市販シナリオを遊んでる間にシステムの特性を感覚的に把握できるし、オリジナルを始めるにもある程度スキルアップしたところから始められる点など、学習モデルとしては悪くないんじゃないかと。
この話にはイニシャルコストも絡んでくるので、一概に全肯定するのは難しいんですが(笑)
「事故」と「失敗恐怖症」
以上のとおり、ゴールデンルールについては「失敗」回避のためのアプローチとして肯定的に見ることも十分可能だと思うわけです。
しかし同時にゴールデンルールを含めた様々なガイダンスによって、「失敗」判定の要件が明確になり、結果的に「失敗恐怖症」の発症率を上げてしまった……ということも、あながち否定はできないかと。
ただ、実際にはそうした「失敗恐怖症」の発症原因は、たぶんゴールデンルールそのものよりも、そうした「失敗」判定になる出来事を「事故」と呼ぶようになったことの方が、影響としては大きかったんじゃあないかと。
それが全てってワケでもないでしょうけど。
用語「事故」の発生原因?
確かなことは分かりませんが、経験的に、TRPG における「事故」って言葉が多用されるようになったのは、わりと近年になってからだと思ってて。(過去にも散発的には使われてたと思いますが、ある程度のコンセンサスが確立されたのは最近のことじゃないかと)
あくまで想像の域を出ませんが、“事故”って言葉が使われるようになったのって、“トラブル”って言葉が人間関係の悪化/コミュニケーション不全といった、深刻でちょっと簡単には解決できないような人格的な問題を想起させることから、もっと単純なゲームプレイ上のミスは“事故”って言葉で区別するようになったんじゃないか……とか。
“事故”という言葉の困ったイメージ
一般化できるかどうかは分かりませんが、“事故”って言葉には「ちょっとした不注意で起こしてしまうもの」とか「期せずして起こってしまうもの」、そして「起こした側は責任を追求されるもの」といったイメージがあるんですね。
こうした「いつ起こるか分からない」「いつ起こっても不思議ではない」ことについて、それを“事故”と呼んで対策を講じるよう促すことには、一定の効果があると思います。しかも丁寧なことに、どのように対策を講じればいいのか、というガイドラインまで提示してる。丁寧な仕事ではないかと。
ですが同時に、“事故”というのは責任を追及されるものですから、これを回避しようと思えば萎縮してしまう、ということも仕方が無いことじゃないか……なんて具合で。
連想から生まれるアレルギー反応
結論としては、僕は次のように考えています。
まず「事故」という言葉が多用されるようになり、一定規模でコモンセンスとなることで、それが「失敗」の判定条件として――たとえば「事故」ったら「失敗」とか――組み込まれ、その結果“「失敗」≒「事故」⇒責任追及される”という構図が出来た。責任回避という自己防衛思想から、過剰に「失敗」を恐れる「失敗恐怖症」が発症しやすくなったのではないか? と考えているわけです。
ここでようやく「事故」という言葉を用語化した(定着させた)のは誰か? という話になって、それが F.E.A.R. のゴールデンルールであるなら、それを問題視するのも道理かな、とか。
……えー、答えっぽいものが出たけど、どっかで根本的に間違えた気もする(笑)
References
↩1 | [客観的な判定が出来ない] = スポーツでも良く見る問題だが、これらはルールによって判定者(審判・審査員など)を絶対化することで回避している。それでも腑に落ちない、納得できないケースもあるが、スポーツでは客観的評価、判定が全てとされ、その点においてTRPGとは異なる。 |
---|---|
↩2 | [自分で作るから買わない] = 発言者がアレなので信憑性はいまいちだが「もの作り系サイトはもうからない」という意見もある。 |