[Manual] 社会生物としての人間 ~ ゲームと娯楽のせめぎ合い

 社会環境と自然環境は、まるでフラクタルな図形のようだと思ってます。
 そうした観点からの話であることをまず断っておいて。

 多くのゲームでは、自然環境内での生存技術について数量化することを行われていますが、社会環境内での生存技術についての数量化は、あまり重視されていないものが多いんじゃないですか?
 自然環境と社会環境って、何で扱いが違うんでしょう?
 ……という話から始まって、最後はなんだか七面倒な話になってます。
 毎度のコトながら、とりとめのない話でスミマセン。

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 人間の構築している社会と、より原始的な自然環境にある野生は、一側面で対義語のようにも扱われますが、構造的にはかなりの面で近接していると言います。
 たとえば社会での生活と、自然での生活は、どちらも「生存戦略」という概念で見たとき、本質的には何も変わりません。(例:狩猟によって食料を得ることと、就労によって賃金を得、それによって食料を得ることは、プロセスが複雑化しているだけで、目的は同じところにあります)
 そして多くの RPG の至上目的は「生き残ること」です。
 ならば社会で生き残っていくための能力は、自然で生き残っていくための能力と同質、ないし同列で扱われてもいいんじゃないか?

 ……と、思うわけです。

 もちろん、システムごとに「推奨される遊び方」があり、その環境も異なります。
 たとえばダンジョンハックを志向した初期の『DnD』に「扇動家」なんてクラスがあっても使い道がありませんし、『TORG』のリビングランドに「共和制政治家」なんてアーキタイプはありえません。(別レルムから転戦してきたのなら分かりますが、恐ろしく無駄の多いキャラクターになるでしょう。恐竜相手に演説とか、楽しそうではありますが)
 ですから別に、全てのシステムに社会系の判定を搭載しろと言ってるワケじゃありません。ただ、都市部など自然環境より社会環境での生存技術が求められるゲームを志向するなら、それ用のデータを搭載すべきだろうって話で。

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 はじめにそれを気付かせてくれたのは『トーキョーN◎VA 2nd.』でした。
 あの「個別のコネクションを技能にする」というダイナミックさには心底驚き、初めて理解したときは手を叩いて目に涙を浮かべながら大笑いしたもんです――もちろん好意的な意味で。
 それ以前にも、たとえば『Shadowrun』などで「コネクション」というキャラクターデータには触れていましたが、判定式まで技能と同じに扱うというのはショッキングで。
 いいトコ「出現判定」をテキトーに振ってたダケでしたし。(多くの場合、当時は「シナリオの都合」で目標値を決めていました。今は違いますが)

 で、この『トーキョーN◎VA』のシステムを見てから『GURPS』のコネクション(当時は「足手まとい」「後援者」「仲間」だけ。後に「しもべ」「情報屋」などが追加)についての理解が進んで。
 ……そして『Shadowrun』にデータをフィードバック。
 『Shadowrun』(日本語版で遊んでたので、いわゆる 2版)のコネの価格が一律だったのが、急に不満になっちゃって。んで『GURPS』のように出現率/正確さ/信頼性だのをレーティングにして、コネクションの価格計算をするようなローカルルールを作ってました。(更に維持費がかかります。ランナーにはじゃんじゃん金を使わせましょう(笑))
 これは後で「コネクションは装備/技能/演出のどれなのか」という話になり、僕は「装備+技能」と言い、もう一人の GM は「演出」と判断して処理が混乱したりもしました(マスタリング手法の差がルールに影響しちゃったわけです)が、アプローチとしては面白かったと思ってますし、実際、ゲームの局面を増やすことにもなりました。例えば「明らかに信頼性の低いコネから得た情報をどこまで信じるか」とか。

 要するにこれは気分の、それから好悪の問題なんですが。

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 ここからちょっと話が脱線します。
 あるいはここからが本題かな。

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 ただこれ、実際にやってみようとすると難しいです。RPG は対話という手法で行われており、しかしそれ自体の数量化がメチャクチャ難しい。評価基準の設定が困難なんですね。
 これが自然環境での生存技術なら、具体的な手法については知識の正確さを判断すればいいだけです。それは多くの実例があり、基準となる資料も事欠きませんから、GM は自信をもって判定できます。
 しかし対人技術は難しい。
 人間という存在を、複雑で多様なものだと信じるために。

 だからこそ数量化しろ、とも思うんですが。
 特に「PC≠PL」の図式を強く推奨するゲームであれば、プレイヤーの表現技術をゲームに数値的に反映させるべきじゃあない。
 「PC≠PL」の図式において、プレイヤーの宣言は常に「何をするか/何を目指すか」という指針を示すもので、実際に行動するのはキャラクターです。だからこそ成功判定がある。であるなら、万人が認めざるをえないルールにもとづいた判定を行うべきでしょう。
 「PC≠PL」を絶対とするなら、それが正しい運用ではないのかと。(ンなモン程度問題だと思いますが、原理主義的に考えるとそうなっちゃう)

 ただし、それは必ずしも RPG の娯楽性に水を注すことがあります。
 少なくとも RPG の持つ「物語を作る」という娯楽性においては、一部プレイヤーのモチベーションを激しく低下させる可能性すらあります。演技を評価対象としない場合、一切の演技を行わず、淡々とゲームを進行するプレイヤーは必ず現れます。
 それも一つのスタイルとして認められるべきものですが、そうでないプレイヤーとの間に温度差が生じるのも当然でしょう。
(特に RPG で「ドラマティックな物語」を作ろうとすると、どうしてもそういう障害が生まれます。個人的には「物語」ってものをもっと広義で受け止めた方がいいと思うんですが)

 そして極論を続けると、行き着く先はこんな質問になります。

〈娯楽〉と〈ゲーム〉、さて、貴方はどちらを選びますか?