集団自決の責任の所在

 あまり「誰に責任がある!」と言うのは好きではないんですが。
 教育関連の話題となると、ちょっと他人事ではないので。

 


沖縄での集団自決は軍主導ではない。
 ――という「学説」が主流になっているから、教科書上の表記を改めろというのは、学校が「学術的な」教育機関であるとした場合、一理ある考え方です。間違ったことは教えられない。
 まあ、そんなこといったら数学以外のほとんどの教科は何も教えられなくなるんですけどね。(数学は人類が作った一種の創造物で、曖昧な状態は基本的に存在しない。ただし数学を応用した科学分野は別)

 で、まあそんな屁理屈はどうでもいいんですが、じゃあ日本軍主導でなかったら誰がやらせたのか。そりゃもう大多数の被害者が当時から言い続けてきたように、日本軍兵士がやらせたものでしょう。でなけりゃ手榴弾なんて兵装を、民間人が大量入手しようがない。

 ここからが問題で、兵士の行為は誰の責任になるのか。
 当然、軍隊の責任になります。
 もちろん一兵卒の独断専行を全て軍隊が責任を取れというのか!? と、軍組織は悲鳴を上げることもあるでしょうが、責任を負うからこそ上層部は命令できるのであって、「命令はするけど責任はとらん」なんて無責任な上官がいて、実際まったく責任を取ろうとしなかったとしたら、その上官の更に上官(任命権者)が、彼に責任を取らせるのが組織です。ついで任命権者が責任に問われる。組織ってなそういうもんです。
 そもそも集団自決が散発的に、あるいは同時多発的に各地で起こっている以上、一兵卒の独断専行ではとても片付けられない話ですし。

 では、兵士はなんでそんなことをしたのかと言えば、一つには軍教育上の問題。特攻、自決を強要したのはまず軍で、軍が兵士にそれを強要したことが先に立ちます。その後「国家総動員法」によって全国民が軍属のような扱いを受けます。
(国家総動員法そのものは元来、戦時統制経済面の強いものだが、法令内容を熟知するものは少なく、また併記された言論統制によって反論の余地も無かったため、この法令は拡大解釈による膨張を続けた)
 軍属であるなら軍命令に従うのは当然――まあ、そんな理路整然とした理屈ではなく、本当はもっと混濁した、ついでに兵士のフラストレーションの発散先として、彼らがそう考えてしまったのも、道筋としてはそう無理のない話だと思います。どちらにせよ許されるべき事ではありませんが。
 これらは総じて「戦争責任」というものではないかと。

 話を戻して集団自決の強要についてですが、これの責任を求めたとき、日本軍にその責任がなかったということにしたいのであれば、日本軍にそうさせた国家総動員法を制定した、政府組織に責任を帰結させることになると、僕は考えます。
 「追い込まれて自決した」とされる沖縄の住民が、明記されていない「追い込んだのは誰か」という点について、現場教師がどう教えるべきか。そのガイドラインをどのように出すのか。教科書問題は教科書の文面だけでなく、実際にどう運用するのかが一番の問題ですから。

 戦争の悲惨さを実際的に語るのは、ベトナム戦争における数々の写真をご覧になれば分かることですし、戦時統制下での長期の生活経験がない自分が「戦争の実際」を語ることはナンセンスでしょう。経験者にしか分からない実際というものは確実に有ります。
 けれども歴史に残るさまざまな「最悪のシナリオ」をシミュレートすることは可能です。性悪説、そして「二度あることは三度ある」というシンプルな視点で歴史を追っていけばいい。
 ただし、それを可能にするためには、個々人が多くの負の歴史を学んでいる必要があります。学校教育はそのための良い機会で、そうした技術の基礎を身に付けるために必要な場です。であればこそ教育が国家第一の政策であり、十年、百年の大計たりえるわけで。
 大人が自分の古傷を触られることを嫌い、子供にそれを見せないよう隔離するのが正しい教育なのかどうか。
 さて、どうお考えになりますか?

/–
 余談になりますが。
 戦争によって何がもたらされるのか。
 戦争とは外交政策であり経済政策です。
 どちらにしても多大な負債を負うことになる下の下の策です。
 勝てば賠償金で国家が潤う、というのは今や幻想となりました。
 現代の軍事行動には費用がかかりすぎるし、敗戦国は故意に極度のインフレーション(停戦条約の内容によってはデフレーション)を巻き起こして賠償金額をどこまでも軽くすることができます。
 ましてや植民地化など国際社会が認められるわけもなく、戦場となった国ではインフラ整備に莫大な費用がかかるため、それこそ潤沢な天然資源でもない限りは単なる浪費になるのがオチです。
 それがあってすら、迷走している某国を我々は目の当たりにしています。