イジメ考[草稿]

 このところ、例の遺書をたくさん残して自殺した子供の話題が(不謹慎な表現ながら)盛り上がってるようですが。
 緊急調査とか、なんか色々やってるようですが。
 そういうモンじゃないでしょう、いじめ。

 


僕は小学校の頃、イジメられてた(と感じてた)クチです。
 人格形成の障害となったとは思いますが、まあそれは横に置いといて。
 いじめが解決できない問題点は、いじめてる方に「いじめている」自覚はないのに、いじめられている方が「いじめられている」と感じる点にあって。

「からかっている」という感覚すらないかもしれません。いじめてる側は。
 よく大人は「一緒に仲良く楽しく遊びなさい」と言います。
 この基準が、子供には良く分かってない節がある。

 一緒に、仲良く、楽しく、遊ぶ。
 たぶんいじめている側の子供たちは、以上の四項目どれについても逸脱しているとは思ってないでしょう。
 いじめる。からかう。
 そうしたことで得られる相手の反応は、子供たちの様々な感情を刺激します。
 その多くは優越感であったり、滑稽芸を見ているような感覚でしょう。
 それらは大人の社会でもあることです。

 また、いじめっ子は大抵が多人数です。
 大多数で、いじめている相手の反応を見て仲良く楽しんでいる。
 一緒に、仲良く、楽しく、遊ぶ。
 子供たちの基準では、どれにも外れていません。

 ではどこで判断するのか、というと。
 被害者側、いじめられている側にしか、イジメをイジメと認識する基準が無いように思います。
 かといって、子供が「イジメられた」と言ったら、どんな些細なことでもイジメ成立……というのも、子供を過保護に育てすぎて温室栽培のひ弱い大人にしかなれない可能性も、充分に考えられます。
 その辺の問題があるんで、未だに解法が見つからんのでしょうけど。
(他には単純に責任逃れとか事勿れ主義とか、権力集団の無能さの問題もありますが)

 では僕自身がどうだったか、という事を思い出してみると……

 イジメられた原因はまあ、色々あるんでしょうけど。手加減が下手だったんですね。というか手加減の必要を認めてなかった。威嚇というか示威というか。できるだけ波風立てないのが一番と思ってたんですが、領域侵犯に対しては防衛行為(=子供にとっては過剰防衛)に出るわけで、そんなことやってりゃ当然ハブられます。
 そ。「無視・迫害」タイプの、陰惨なイジメでした。まあ例の、自殺した少年に比べれば、児戯にも等しいんでしょうが。(死のうとは思いませんでしたし。殺そうとは思ったけど)
 班分けで最後まで残るとか。机を並べてもらえないとか。給食袋(スモック入れとくアレ)が僕の分だけ失くなってるとか。休み時間にトイレから帰ると体操着袋がゴミ箱の上に載ってるとか。林間学校で布団が僕の分だけえらい遠い部屋の隅にあるとか。大まかに言って、そんな感じ。
 で、それに対抗する僕の防衛策は「程度の低い連中だ」と見下すこと。程度の低いアホウなんぞ相手にしてられるか、という。なんちゅーイヤなガキなのか(笑)。でもまあ二年間は、ソレで乗り切りました。(間に半年ばかし、転校してる時期があるんだけど)
 小学校卒業と同時に引っ越して、中学からは新天地。1 年だけ北陸にいましたが、トラブルがあって呼び戻されるように関東に。その後もまあどっか異端・異物のままだったんですが……確かアレだ。変わったにもキッカケがありまして。何度呼んでも無視されてたヤツに、ブチ切れて名前呼び捨ててやったんだ。そしたらなんか、その後は上手く回るようになりまして。……逆にちょっと怖い人だと思われてたっぽいんですが(笑)
 ほんとに大したことじゃないんですけどね、キッカケって。

 で、まあ僕はそんなだったんですが、もしアレ(イジメ)が続いてたらどうなってたかというと……たぶん今よりロクデナシな人間になってたのは間違いなさそうです。自殺なんかしてなかったと思いますが、人の一人くらい殺しててもおかしくなかった。

 だからといって「勇気を出せ」とか「変わろうとしろ」とか言えません。
 そういう境遇にある人間がそう容易く変われるモノでもなく、また変わろう、変わりたいと思ったことは数え切れないくらいあったでしょう。そんなの他人が言うことじゃない。言われれば却って腹が立つモンです。
 かといって「キッカケをつかめ」というのも曖昧すぎますし。
 僕は単に運が良かっただけです。たぶん。

 本人には、もうどうしようもない、覆せない関係が成立してしまったとき、対処できるのは誰かと言うと、身近にいる大人……となるわけですが、教師に頼るのは無理があります。公平性を求めつつ、個人の保護もしろというのは無茶です。
 助けられるポジションの九割方は、親が握っているでしょう。

 親も親である前に個人であるという考えは、そう間違っていません。
 ただ、子を設けて愛し育てるならば、親であることが必要な時もあります。
 そのとき親は個人である前にまず親です。親であることから逃げちゃいけない。
 逃げてる親が多いようですけどね。
 仕事に手いっぱいで、家庭生活を見ない人。
 そういう人に限って、教師や学校にすべての責任を押し付ける。

 子供と話をして、異変に気付いて対応する。
 大人なんだからそれくらいの能力あるでしょうに。
 教師が子育てのプロフェッショナルというのは大きな間違いです。
 教師は勉強を教えるプロフェッショナルに過ぎません。
 子育てのプロフェッショナルは、親の親。子供の祖父母です。

 核家族化が進んで、三世代が同居する家庭が減りました。
 また同居することを嫌う人が増えてます。
 が、それは子育てのプロが不在になるという当然のリスクを負うことです。
 自分で選択したリスクを、教師や学校のせいにする。
 それは単なる責任転嫁だと思うんですが?

 もちろん嫁姑問題やら二世帯の生活環境の差やら、他の要因はいくらでもある事なんで、同居生活を嫌うのも選択の一つとしてアリだとは思うんですが、リスクを選択したのは自分だということを、忘れちゃいけません。
 これは選挙他にも言える話ですが。