教育考[没]

註:話がまとまってません。
 メモ的に思いついたことを書き散らしているだけなので、悪しからず。

 昨今、あらゆるミスを許さない(一度の失敗を論う)風潮があるようですが。
 ものすごく気に入らん話で、でも社会がそうなんだから仕方が無いとか言われると、露骨に不貞腐れる自分がいます。
 こと教育の場においてまで、ミスが許されんというのはいただけない。
 なにも学校教育に限った話じゃないんですが。

 


トライ&エラー (Try & Error) という言葉があります。
 Excite翻訳にかけると「トライと誤り」という、バカ丸出しの直訳が帰ってきます(笑)が、チャレンジして玉砕して、またチャレンジしてまた玉砕……くり返しながらスキルを向上させていく。大体そんな意味で考えていいと思います。
 加点法にも減点法にも見えますが、これは単なる訓練方針です。

 まずチャレンジして、失敗する。
 そのとき、失敗に目を向けても成功に目を向けても構わんのです。
「ここは良くできた。あの方法を覚えておこう」
「ここは悪かった。次は違う方法にしてみよう」
 語彙的には後者なんですが、実際やってみると両方とも成立します。
 失敗を潰しながら、成功を伸ばしながら、一歩ずつ進む。
 それがトライ&エラーの本質。

 義務教育は、本来そのトライ&エラーを学習するための場だと思うわけですよ。
 最近はどうも平等だの何だの言って、子供の頃から横並びを推奨してる向きもあるようですが。
 アホかと。
 そのくせ「個性を伸ばす」とか言ってるじゃないですか。
 どっちなのかと。
 そもそも「平等」と「個性」を別々に配置しているからおかしなことになるのです。
 「平等」というのは、物事を評価するときに同じ物差しを使うこと。
 「個性」というのは、相対的に物事を評価したときの個体が持つ特性。
 ……という認識で話を進めると、二つは「評価の道具」と「評価そのもの」になります。
 なんでそんなモンが並列化されるのかと。

 これが「平等に個性を伸ばす」というなら、分かります。
 個性を重視して、どんな個性も平等に尊重すると言うことです。
 長所も短所も同じ個性なら、それらを等しく伸ばしてやることを考える。
 それは一つの方針として理解できます。
 でも、どうも現実はそうではないようです。
 少なくとも、多くの「親」たちは、そう考えてないようで。

 平等という言葉を支えているのは、平等原則です。
 日本では日本国憲法第14条、いわゆる「法の下の平等」に該当します。
 見りゃ分かるとおり、平等なのは「法の下の」です。
 法とは、言い換えるなら「義務」と「権利」の二つです。
 これがまあ、裁判で判例を易々と覆せない原因の一つになってるんですが、それはともかく。

 日本国憲法の平等については、原則「機会の平等」です。
 機会の平等とは「チャンスを等しく与える」ということ。
 「等しい状態にする」ということ(結果の平等)じゃないんです。
 だいいち、同じ状態にするなら職業の別はありません。収入の別もありません。年齢も性別も健康状態も、ありとあらゆる別はありません。そもそも性別が違う時点で結果は同じになりません。女性には生理があり、男性には無いわけですから。

 それでも結果の平等を追求すると、どうなるか。
 同じ環境から同じ時間に起きて同じ時間に料理をして同じ時間に食事して同じ時間に歯を磨き同じ時間に電車にのり同じ時間だけ電車に揺られ同じ時間に電車を降り同じ時間だけ歩いて同じ時間に職場に入り同じ仕事をして同じ時間に昼休みをとり同じ時間に職場を出て同じ時間に呑みに行って同じ時間に同じ量だけ呑んで同じように酔って同じ時間に帰り同じ時間に風呂に入って同じ時間に同じ話をして同じ時間に就寝する。(書いててゲシュタルト崩壊起こしました(笑))
 極論を言えば、これも一つの結果の平等です。ナンセンスですが。
 ありえない。
 第一、気候も地形も違う時点で既にして平等ではありません。
 結果の平等なんて、そもそもありえんのです。

 第一、大人がどんだけ小細工したところで、子供たちは個人差を残酷なほど知ってます。
 都市伝説的に語られる「全員で一斉にゴールする」も、ゴール前まで走ってる時点で誰が早いか分かります。そうでなくとも「僕はもっと早く走れるのに」とか思ってる子供にとって、一生懸命走ってるように見える子供は「のろま」ということになります。
 テストの点みりゃ一発で分かります。
 音痴だって、比べて聞けば一発で分かるでしょう。
 図工も、習字も、スポーツも、ゲームも、話題の豊富さだって同じ。
 それらは全て相対的に、一目瞭然です。
 子供らには分かってます。
 そんなことを平等だなんだと喚くのは、親の欲目でしかない。

 そしてそんな親を、子供は軽蔑するんじゃないでしょうか?
 自分たちにもハッキリ見えてる差を、必死に分からないと言っている。あるいは分からんフリをしている。そりゃあ誰だって「こいつアホだ」と思うでしょう。
 そういう意味で、子供は純粋です。言葉を鵜呑みにする。
 それが残酷だと言うのは、妙な道徳観念に毒された大人の目で、子供にとっては常識以前の問題でしょう。
 親たちの欺瞞に付き合わされる、子供の方が可哀想です。

 そしてそうした欺瞞が、子供たちからトライ&エラーの機会を奪っていきます。
 結果を平等にするには邪魔ですからね、失敗する可能性のある挑戦なんて。
 ところが僕の知る限り、強い日本人の多くは「失敗を積み重ねた人」です。
 順風満帆な人生を送ってる成功者の多くは、影で努力しています。
 その努力の過程がトライ&エラーです。
 恥を知る日本人の多くは、失敗からより多くのことを学べる資質を持ちます。

 失敗が恥ずかしいなら、次は失敗しないようにすればいい。
 そういう信念が持てれば、人間はいくらでも育ちます。
 失敗が恥ずかしいから、もう挑戦しない。
 これでは成長の余地なんかありません。
 不況不況でジリ貧の中、現状維持で乗り切れるならいいんですが。

 ……ああ、話がまとまってない。
 これはアレだ、没原稿にしよう(笑)

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 余談ですが。
 昔、父に言われたことがあります。

「お前が何を生業にしても構わんが、サラリーマンはいいぞ。
 なにしろサラリーマンは、勉強しながら金がもらえる」

 僕はあっさり脱サラしちゃったんですが(笑)