教育考[1] : システムの不備

 日本の教育システムの歪みは、前時代的な大人:子供の構図にあるのかもしれない。
 教育の全てを教師が行い、唯々諾々と教師の指導に従う生徒が優秀という形。
 その結果が「言われたことしかできない人間」なのでは? と。

 


例えば英国のパブリック・スクールのように、上級生が下級生を監督・教育するという発想は、ほとんど全ての学校において存在しない。
 もちろんパブリック・スクールのシステムは、教師の監督権限が及ばない領域を作ることであり、それは保護者にとって不安要素となる。それは一面の事実だ。
 その他にも成立条件における難度、成立過程のトラブルなど、孕んでいる問題は少なくない。
 が、それらは現代日本の教育システムの中で、既に顕在している問題である。
 今更だろう。

 地域社会の親密度が高ければ、例えば奥さんが買い物に行くとき、お隣さんに子供を預かってもらうような社会であれば、そうした教育の教育は自然に学ぶことになる。そうでなくとも兄弟がいれば、その世話をすることで若干の学習が可能だ。
 だが、現代日本の社会構造はまったく逆を向いている。
 兄弟ですら、少子化、晩婚化、核家族化の拡大によって数が減っている。
 誰も彼もが「教える」ということを学習できないまま、社会に放り出される。
 その結果として、親が子供に勉強を教えることすら出来なくなっている。

 僕は「教える」ということに、たぶん過剰なまでの関心を持っている。
 果たして自分がモノを教えられるほどご立派な人間か、という疑問は常に抱いているが、だからといって、その域に至るまで自分を磨くだけではきっと、そこにはたどり着けない。
 それに「自分が他人にモノを教えられるだけの立派な人間」だと思っている人間を、僕は信用できない。

 そもそも「教える」ということは、自分も一緒に学ぶことにつながっている。
 人は人に教えながら、自然と人に学ぶことが出来る。実に効率がいい。
 「負うた子に教えられ」という俚諺が、僕は好きだ。
 気付かなかった理に気付かされたときの快感は、ちょっと他では味わえない。
 もちろん、相手によっては肚が立つこともあるが、気付いたときの快感は変わらない。(だから余計に腹が立つんだけど)

 学びたければ、教えればいい。
 学ばせたければ、教えさせればいい。
 生徒役がいなければ、自分がそれになればいい。
 方法はいくらでも考えられる。

 親が親でしかなく、子が子でしかない社会というのは、つまらない。
 ずっと親でなければならない、というのはストレスも溜るだろう。
(核家族化がそれを促進してると思うんだけど、どうだろうね?)
 子が子でいればいいから、子は子のまま育とうとしない。
(ニートの多くはこの辺りが原因じゃないかね?)

 なにより、子供に勉強を教えてもらうというのも、案外楽しいモンですよ?

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【メモ書きとして】

 個人の才能を伸ばす。天才信仰。
 学歴信仰に替わる信仰として、メディアに作られた神話。
 しかし、天才の子が天才とは限らない。
 天才が天才を育てるとも限らない。
 天才に依存した社会は、天才の死と共に瓦解する。
 天才の暴走が社会を暴走させる。
 そんなものに依存する社会が、正常といえるのかどうか問いたい。