表現の自由v.s.信仰の尊厳

 


現在デンマークの風刺画(文字で書いてるから絵じゃないなんてコトを言ったら、ウォホールに端を発する工業デザインはどうなってしまうのか)に対してデモだかテロだか分からんような活動が燎原の火の如く広まっていて、アレ書いた人はきっと得意満面だろうなァとか思ったりするわけですが。

 前にも日本で、性同一性障害の女性三名(記事ではそう伝えられてたけど、本当に性同一性障害なのかは不明)が、女人結界を密かに越えて御山に登ろうとした、なんて話があって「そんなコトしてたら余計に潜在的反対者を増やすようなもんじゃない?」と思ったモンです。
 彼らがその町に暮らしていたなら、まだ理解も出来ます。
 それが有る社会の中で暮らしてきて、そこに疑問をもって、何か行動を起こすというのは悪いことじゃない。
 でもそうじゃなかったようです。
 他所から集まって

「あそこに女人結界とかいう不埒なものがあるらしい。
 そんなものは我々の敵だから、我々の手で退治てくれよう」

ってな具合に乗り込んでいくというのは、無茶もいいところ。どこに賛同して、共感すればいいのか、さっぱり分かりません。
 もちろん女人結界が今の時代に正しいかどうかは、別問題ですよ。
 元々は何らかの理由があって張られた結界としても、今現在それが機能することによって「何が守られるのか」という点を、張っている人間が理解していて、それが必要であると思っていなければ、それは単なる慣習に過ぎない。
 そんな慣習だけで、性差別をするのは確かに問題です。
 でもそれは、たとえどんなに時間がかかったとしても、それを有する社会の人たちが考えるべきことでしょう。ろくろく内情も知らない人間が、頭ごなしに

「そんなもんは悪習だから、さっさと辞めなさい」

とか言ったって仕方が無い。そんなの

「あんたらの国には自由が無い。そんなことでは国際社会の仲間として認めるわけにはいかない。だから私たちが君たちの自由を剥奪している独裁者を殺してあげよう。なに、感謝の言葉なんて要らない。代わりに私たちの教える自由を君たちが盲目的に享受してくれれば。それは例えば資源をより優先的に自由の国に供給したり、我々の自由と対立する悪の枢軸にそれらの資源を譲渡しないようにすること。そのために新しい政府は我々の自由をよく理解した人たちの手によって作り上げることだよ」

と、絨毯爆撃なり特殊部隊なりで国土をめちゃくちゃにするどっかの国と、何が違うというのでしょう?
(まあ確かにあの国にも問題はあったし、全て間違っていると言うつもりは有りませんが。気に入らんのは大義をかざすくせに利己的な略奪じみた行為はしっかりやってること。まあ、何の利益も得られないのに税金と血税を投入する政府なんて、政府として許されざるものですが)

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 自己の権利の拡張と、他者の権利の侵犯は、全く違うものだと思うんですけどね。
 どうも一部の“自称”マイノリティー(一歩間違えば単なる被害妄想)な人たちには「社会」と「国家」を同一視するのにも似た、おかしな概念を持っているようです。

 でもこれらは、まったく別のものです。
 なにしろ社会は国境線に関わらず、マクロにもミクロにも展開できるものですが、国家は国境線と法律で制約されるものです。

 社会は常に拡散し、国家は常に閉塞します。
 そうした閉塞から逃れる方便として、国家は他国へのさまざまな侵略を行います。
 しかし放っておいても拡散していく社会が、わざわざ他の社会を侵略する必要はありません。社会は侵略するものではなく、融和するものです。
(他の社会を攻撃する社会には、社会そのものとは異なる恣意的ないし政治的理由が関与することがほとんどです。そしてそれらの大概は、国家やそれに類する集団によってもたらされています)

 世界三大宗教とされるイスラム教、キリスト教、仏教(五十音順)が世代を超越して顕在であり続けている最たる理由は、彼らが国家にも社会にもなりうる柔軟性を持っていたからでしょう。
 ただ単に幸と不幸の商売上手ではないのです。

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 で、今回のデンマークの一件ですが。
 むずかしいところです。
 イスラム教徒たちにとって、ムハンマドの肖像画なんてな許されざるものです。
 でもイスラム教徒でない人たちにとって、そうしたルールはありません。
 自分はイスラム教徒じゃない。だから描いてもいい。
 ……そういうものでも無いような気がします。

 表現の自由というのは、実際には大きな制限があります。
 確かに先人たちが命がけで勝ち取った、尊ぶべきものです。
 だからといって、例えば気に入らない相手に関して悪事を捏造し、罵詈雑言を並べ立てても良いものでしょうか。
 そういう表現なのだ、と言えば許されるものでしょうか。
 そんなことは、ないはずです。
 キリスト教徒の多くが「表現の自由」を掲げていますが、映画『The last temptation of christ(邦題:最後の誘惑)』に対して多くのキリスト教関連団体から上映差し止め要求があったり、未だに多くのキリスト教圏の公共施設にそのビデオ、DVDが置かれない等の事情はどこへいったのか。
 まあ確かに、あの時と比べても今回のデモ(あるいはテロ)は、度が過ぎていると言えなくもありませんが。

 風刺画とは革命の手段です。
 何らかの問題に対する要諦、急所を一撃し、新たな時代を招くもの。
 それは強い力を持っていますが、だからこそ使い方を注意しなければならないものです。
 言うなれば、社会的核爆弾。
 今回の件がいい例です。
 もっとも、このデモ行動の裏には別の匂いもプンプンしているわけですが。

 扱いには、もっと注意するべきでした。
 イギリスの主要メディアが、そのものの掲載を差し止めたのは英断と言えるでしょう。
 有識者らに敬服します。

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 ここからは、あくまで個人的な感想と断りを入れた上での話なんですが。

 キリスト教徒は玉石混淆で、イスラム教徒は少数精鋭というイメージがあります。
 目に見える信仰心の篤さが。
 キリスト教徒というと、ロクにミサにも行かなくても、洗礼名と十字架と聖書を持ってりゃそれと名乗れる節があります。
 対するイスラム教徒は、毎日 5回のギブラへの礼拝を欠かしません。いくら自分はイスラム教徒だと名乗っても、礼拝もせんかったら誰も信じてくれません。

 もちろん敬虔なクリスチャンも、へべれけになるまで酒を飲むムスリムも知り合いにいますが、トータルとして見たとき、どうもそういう印象が強いわけです。

 どちらが正しいとか、どちらが間違ってるとか、そういう話ではないんです。
 そもそも教義も歴史も生活圏も違うんだから、それは当然のことです。
 ただ、そういう意味ではキリスト教徒の方がより「宗教の尊厳」を軽く考える傾向があるのかもしれない……と思うわけです。
 目に見えるものの違いに過ぎないんですが、僕のような凡夫にとって、やはり目に見えることはそれだけで影響を与えるものだとも思うのです。
 心身不可分。

 ちなみに日本人は無宗教無信仰と言いますが、日本人の信仰心と、欧米の大都市で暮らす多くのキリスト教徒の信仰心は、大した違いが無い気もします。そうした最新のキリスト教徒たちの多くは、子供の頃に洗礼を受けただけって人が少なからずいるし、そういう意味では死んだ途端に仏門に入れられる日本人(仏教徒)と、どれだけ違うんだ? とも思います。
 違うのは信仰心ではなくて、生活の中にどれだけ宗教色があるか、というダケの話でしょう。
 ホントは日本にも沢山あるんですけど、それと気付けないくらい薄いですからね、日本の生活色。