[column] プレイヤーという英雄

前エントリ「シナリオ中の“悲劇”」では、シナリオにおける「物語表現上の悲劇」にユーザがどう接するのか、みたいな話をちょろっと書いたわけですが。今回は TRPG における PC とプレイヤー、「英雄」についての話を。

当初予定していた話とは違うんですが、まあタイトルに沿ってはいるんで(^^;

英雄とは

かなり古い概念になりますが、多くの TRPG における PC――プレイヤーキャラクター――の物語的役割は、“困難を乗り越えて何かを成し遂げる者”という性質があります。まあ平たく言えば「ヒーロー」とか「英雄」と呼ばれる存在であり、プロップによる登場人物の七分類に沿えば「主人公」になるでしょうか。

ああ、まったくそんな存在ではない、単なるそこら辺にいる一市民を遊ぶタイトルもありますし、僕自身もゲームシステムや世界設定によって、PC が無理矢理ヒーローにされるようなものは、あまり好きではなかったりするわけですが(笑)

英雄の資質とは

ところでちょっと視点を変えて。

「英雄とは何ぞや?」と考えた時、上で“困難を乗り越えて何かを成し遂げる者”と書きましたが、果たしてそれはただ能力によって選ばれるものなのか。

どうでしょう?

それは一面の真理では有りますが、能力だけでは不足していると考えます。

もちろん、なにかを成し遂げるために能力は必要です。ただしそれは「目的」を達成する方法に沿ったものであって、何も超人的な、百万馬力というわけではありません。

非力な人間でも、梃子の原理を使えば自分の何倍もの重さのものを持ち上げ、動かすことができる。電話の無い時代であっても、人は伝令を走らせ、狼煙を上げ、伝書鳩を飛ばして遠くへ言葉を伝えました。

「目的」を達成する、何かを成し遂げるために必要なものとは、実現しようとする意思と、手段を練る知恵、そしてそれを実行する能力という、三つの要素だと言えるんじゃないかと思うわけです。

誰が英雄なのか

さて、メタ構造に話を移しましょう。

TRPG という遊びの中で、果たして誰が英雄なのか。

誰が英雄となりうるのか。

なにかを成し遂げようとする意思を持ち、知恵によってそのための手段を講じ、そしてそれを実行するのは誰なのか。

これ、PC じゃなくてプレイヤーだろう、と思うんですね。

夢も希望も無い話をしますが……

PCに意思はあるか

たとえば PC それ自体は完全に独立した意思を持ちません。

PC が真実、独自の意思を持って行動しているのであれば、プレイヤーは〈意思決定〉などする必要が無い。方法的にはそれを実現することも不可能ではなさそうなんですが、たとえば PC がプレイヤーの手から離れて意思決定を行い続けるとき、プレイヤーはただランダマイザを扱うだけの存在に成り下がります。それを TRPG と呼んでいいものかどうか。僕は違うと思いますが。

PCの知恵はどこに

PC に何かを考える知恵があるとしても、それをメタレベルの我々が知覚することは出来ません。

PC からプレイヤーを切り離したとき、彼らは彼らの教養や思考といったものを、具体的に表現することが出来ません。ゲームマスターによって間接的に伝えられることは有っても、それはゲームマスターが考えたことであって PC が考えたことではありません。

PCの能力とは

PC には能力がある。これは確かです。

キャラクターシートを見てみれば、キャラクターシートには、PC がゲーム中にどんなことが出来るのかについて、ルールを運用するためのデータを書き込む欄があります。*1[データを書き込む欄がある] = 『バイオレンス』を除く(笑) しかしこれを運用するのは PC ではありません。残念なことに、PC には意思決定をする能力がないんですから。どれほど早く走れるレーシングカーも、アクセルを踏み込んで操縦してくれるパイロットがいなければ、一ミリだって動けやしないのと同じで、PC も、実際に動かしてくれるプレイヤーがいなければ、行動できないのです。

主観の入り混じった話になってしまいましたが、結局のところ、TRPG という娯楽において真に英雄足りうるのは、PC ではなくプレイヤーではないか。

そう考えていますし、そうであって欲しいという願望が僕にはあります。

まとめ:物語における悲劇と英雄

前のエントリに遡って。

ゲームにおける悲劇は、「物語表現上の悲劇」と「打倒すべき課題」の二種類に分けられる……と書きました。前者は改変不可能な確定事項で、後者は改変可能なゲーム対象、と言い換えてもいいかな。

まあ「打倒すべき課題」とは言ったものの、プレイヤーにとっては「打倒したくない課題」というのも有るわけで、その辺はまあシナリオデザイナーにとっての「打倒して欲しい課題」と言った方が正しいかも知らんですが(笑)

これをゲームの階層と物語の階層で重ね合わせると。

まずゲームの構造としては、ゲームマスターが悲劇を「打倒すべき課題」として提示し、プレイヤーがそれを受け入れた時、彼らは「英雄」となって悲劇を打倒する……というモデルがあります。旧来的な TRPG の、わりと一般的なシナリオモデルではないかと思います。

こうしたゲーム構造と平行して、ゲーム世界――言い換えれば「物語上」では、悲劇を打倒した者たち、PC たちが「英雄」とされるわけです。

雑記

さて、この後「ゲームマスターという観客」ってエントリを用意してたんですが、例によって紙魚砂氏が「表現者の逆転について:(・_・)」でざっくり言及してくれてますね。

うーん、どうしよう?

……ま、いっか(笑)

とりあえずそれは後回しにして、もう一つ、関連して僕のやってるライフワークス型キャンペーン運営のテーマ、「すべての悲劇を蔑せよ英雄」を書こうかな。

前回のエントリが書き終わった時点で書こうと思ってた「プレイヤーという英雄」の内容になります。前にも書いたことがある、ゲームの遊び方やゲーム/シナリオデザインの話になりそうですが。

References

References
1 [データを書き込む欄がある] = 『バイオレンス』を除く(笑)

「[column] プレイヤーという英雄」への2件のフィードバック

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