表現史がなんで気になるのか、と聞かれてちょっと考えた話。
伝えきれないものがある
たとえば標準語って成立してまだ 100年そこらだと思うんだけど、たかだか 100年の蓄積じゃあ表現しきれないモンってのも沢山あって、そこんとこは方言で補完したりする。
沖縄のブームというか、なんかそんな流れで方言が注目されたことがあったけど、それは今で言うコミュ障と言うか、「なんか巧く伝わってないなー」って思いがどっかに有って、それを補完したい気持ちから……ってのが有ったと思う。
まあとにかく、そんな感じで現在の標準語、グローバルスタンダードなものだけでは限界があるわけ。
あれは言ってしまえば世界最低水準、とりあえずココから始めようぜってダケのものだから(笑)
で、方言がなんで大事かってーと。
発生の古い言葉ってのは、原意というか、音と感覚が近いものが多いのね。で、それは同じ言語圏に居れば直感的に「そんな感じかな」って理解できちゃうものとかがある。
オノマトペなんてのがあるけど、ああいうのも同じ。
小説の作中でご当地方言を登場させると、それだけで作品世界の空気を「分かった気にさせる」事が出来たりする。(旅情サスペンスでよく使われる)
音と文字だって同じじゃない
で、今のは音の話が多かったわけだけど、音声と文字の乖離ってのもあって。
方言を文字にしようとすると、上手く書けなかったりする。
でも上手く書けてないはずなんだけど、なんとなく伝わることもあるし、伝わらないこともある。
それが何でかってところになるわけね。
音は同じなんだけど、見え方で伝わるモノが違うってのも、あるわけ。
たとえば「はんなり」と書くか「ハンナリ」と書くかで、見え方、伝わり方は違うでしょう。
あるいは、
これだって違ってくる。
今のが全部どう違ってるのかを把握して整理して理解しないと、正しく使い分けられない。
こうなってくると、これはもう文字の見え方、視覚情報の処理がどういうロジックで行われてるのか? そういう話になってくる。
これって活字だけ読んでりゃ分かる話じゃないわけ。
表現方法は多彩だ
音声情報ってものすごく強いんだけど、微妙すぎて体系化しきれない部分がある。
また言語化できない、表現しきれないものってのが土台になってることが多くて、そうするともう伝えたいものがちゃんと伝えきれるかどうかは、演ってる方にも分からなくなってくる。
逆に視覚情報、たとえば絵画、写真、映像、まあイラストとかマンガとかアニメーションとか……そういうものは、なんぼか体系化しやすいわけだけど、今度はどっかで何かを取りこぼしてる。
微細なものを削ぎ落とすことで、整形して枠にはめることが出来るわけで、でもその取りこぼすもの、削ぎ落としたものを表現したいときはもう、どうしようもない。
そういう色んな特性を考えて、それをどうやって拾っていくか、伝わりやすくするかってのは、作りたいもの、表現したいものをどうやって伝えるのか? どんな表現メディアを使うのかってことを考えることになる。
まあたまに、直感でやっつけちゃう人もいるんだけど、残念ながら僕はそういう天才型の人間ではないので(笑)
だから色んな表現が気になるし、勉強することは沢山あるっていうね。
ま、そういう話だよ。