今回は「自由」について、二年くらい前に当たってた文献のメモがあったんだけども。
久しぶりに見て「そ~いえばこんな話あったね」っていう、ちょっとした話。
一応 TRPGer を意識してるけど……まあ基本的にウチ見に来るような人なら、違う界隈の人でも念頭に置いといて損はなさそう(笑)
Law か Chaos かで言ったら Law
で、えーと。
TRPG の「ゴールデンルール」の話をこないだ書いたわけだけど。*1[ゴールデンルール] = あれ書くのに確認するためだけに『アリアンロッドRPG 2E』買ってきたよ。何やってんだかねーホント。
あれでまあ「ゲームマスターがルールを超越すること」について認める部分があるのね。
セッション中に演出されている空間は、参加者の想像力とルールによって仮想された、もうひとつの現実である。本書では可能な限り”ゲーム内の現実”をシミュレートするためのルールを掲載しているが、それでもルールに記述されていない事態は発生する。
GMは、そのような事態が発生した際に、あるいはルールの運用に迷う場合に、どのように裁定するかを決定するかを決定する最終的な権利を持つ。それにともない、GMはルールを作成、および変更、さらには存在するルールを適用しなくともよい。『アリアンロッドRPG 2E ルールブック①』 p.18-19
引用文にもあるとおり、これは TRPG の構造上の問題に対する解決策の一つなんだけど、そのためにある種の「自由」を認める部分がある。
でも実際、何でもかんでも好き勝手やっていいわけじゃない。
むしろ「普段はしっかりルールを守ってるからこそ」認められるってのが、ある。
もちろんゴールデンルールでも、その旨はちゃんと触れられてる。
ただし、これらの権限や能力を行使するにあたって、GMは可能な限り正しいルールで遊ぶこと。加えてすべてのセッションの参加者(GMを含む)に対して、公平なルールの適用を心がけること。
『アリアンロッドRPG 2E ルールブック①』 p.18
これは何もゲームに限ったこっちゃ無いのね。
自分が何かしら好き勝手やろうとして、それが他人を巻き込むものであるなら、それ以外の部分で何かしら他人にペイするものがないとイカン。
そうでないと、まあ反感を買うよ。そういうモンだわよ人間社会。
で、そういうコトって昔からあるのね。
これはそういう話。
法然上人の「七箇条制誡」
法然上人っていう、日本の仏教史上でも相当重要な人物がいるんだけど。
この人、なんかこう色んなプロセスを経て、ある境地に至る。
そこに至るまでの話を分かりやすく書き下していくものとして、個人的には「新城直衛は、末法の世に抗うようです」*2[新城直衛は、末法の世に抗うようです] = 続きも期待してますですよ。あたりを薦めときます。
なんせ上手いし面白い。
いやまあ、まだソコまで話は進んでないんだけども(笑)
元々「信仰」について無学者がアレコレ語るのは難しいし、あんまりザックリやっちゃうのもどうかと思うんだけど……まあその、この法然上人の教えってのは、当時の仏教界からすると相当フリーダムだったらしい。
フリーダムっちゅーかロックっちゅーか。
そうすっとまあ薄っぺらな認識でその新しい波に乗っかって、婆娑羅なことを「俺カッケー!」ってやっちゃう連中が巷にあふれることになるわけ。
よくいるわな。自分に都合のいい部分だけつかまえて、ご乱行の免罪符にしちゃうヤツ。
で、当然そんなん他のおカタイ宗派からイチャモンをつけられることになる。(歴史に残るその行状が、果たして「おカタイ宗派」に相応しいかは怖いから論じない)
これをイチャモンって言っちゃうのもアレなんだけど、法然上人側からすると色々と困った事態になった。
このへんは「建永の法難」とか「承元の法難」とかで検索してくれると出てくると思う。
歴史を読んでると、いつの時代にもこういう騒動あるんよね。
繰り返すなァ人間(笑)
で、その時に法然上人側が「七箇条制誡」(七箇条の御起請文)ってのを出しててね。
「自分たちはこういう風に身を正しますよ。だから認めてね」っていう、宣誓みたいなモノ……で、いいのかな?
これが色々と考えさせられると言うか、昔からやっぱりこういうのはそうなるよねっていう。
① 天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと、
② 無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと、
③ 別解(べつげ)・別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと、
④ 念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと、
⑤ ことごとに私義をとなえないこと、
⑥ 痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと、
⑦ 仏法にあらざる邪法を説いて正法とせぬこと、七箇条の御起請文 – WikiArc
こいつをザックリ意訳したものを、確か……えーと「やる夫は鎌倉幕府を成立させるようです」の巻第拾参の中で――
一つ、天台・真言を馬鹿にしない!
一つ、しったかしない!
一つ、他の考え方する人を嫌わない!
一つ、戒律が無いから罪を犯しても良いとか言わない!
一つ、自分の事ばかり言わない!
一つ、身の丈に合わない布教をしない!
一つ、そもそも仏教に無いことを言い広めない!
――こんな感じ。
「何かしらの自由を行使する→不自由から逸脱する→自らマイノリティを選択する」人間が、「不自由に甘んじるマジョリティ」から認められるには、マジョリティ以上に自律/自制を求められることになる……ってトコかしらん?
マジョリティは往々にして潔癖症になりやすいっちゅーか。
ちょっとまあ最近はその潔癖っぷりの度が過ぎてるきらいもあったり、色々と思うこともあるんだけど。
……このまま続けると、色々と憤懣たるものが吹き出してきそうなんでここで終わろう(笑)
とにかくまあ、「そういうモンよね人間社会」って話。